5-6

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 娘はいったい何処まで理解したのか、あの瞳に魅入られて確認するのが怖くて訊けなかった。  此処は下手に解説して突っ込まれるより、そうかと娘の問いに無言で答えたようにして朔朗はそのあと一人で散歩に出た。  この時に「お父さん、風邪引くわよ」と云う言葉が娘の応援歌のように背中に響いた。これで娘は俺のああだこうだと云う言葉の理屈より、後ろ姿の中で育っていると確信した。 我が家を振り返りながら娘も社会人になるか。朔朗はふと自分の場合は、社会人第一歩はどうだっただろうと振り返った。  学校からの斡旋された会社へは人間関係が馴染めずに半年で辞めてしまった。中小企業や個人経営の会社は何かと苦労すると就職担当の先生に言われて大会社に就職した。これがその大きさ(ゆえ)に実に仕組みがややこしかったお陰で(たらい)回しにされた揚げ句に居場所をなくした。大会社に懲りて小さい会社なら接する人も少なくて(なご)やかだろうと思ったが、個人経営は雇い主によって雇用が大きく違うことを知った。そこからが苦労の連続だったがある家庭的な会社で出会ったのが由紀乃だ。その彼女が今の会社を探し当てて勧めてくれた。お陰で今まで居られたが、その由紀乃をたった一泊二日の慰安旅行で失ったが代わりに桃代に出会った。人生は何処でどう変わるか分からないものだ。その由紀乃が二十年数年振りにひょっこり現れるなんて、しかも子供同士が付き合ってるなんて皮肉な運命だ。今になって想えば慰安旅行に出掛けた留守に隣のあの男が余計なちょっかいを出さなければこんな筋書きにはなってなかった。  春を告げる穏やかな日和に誘われて家を出てから一段落したのか急に長い回想に耽ってしまった。何処をどう歩いたのか気が付けば三条大橋まで歩いていた。しまった ! 随分と遠くまで歩いて来てしまった。人生の過去を振り返っていたつもりが、現実に今まで歩いた過去を振り返ると疲れがどっと湧き出した。もう歩けないと残った気力に任せてタクシーを拾った。運転手は行き先の確認に二、三度頷き発進させた。  長時間歩いた疲れを座席シートに預けると、歩いた行跡(ぎょうせき)を深い溜め息で眺めて進行方向に目を移した。運転手の横顔に見覚えがあった。確認する為に乗務員カードに目を移した。間違いないあの時の隣人の中野だった。しかし彼をこんな間近で一対一で対面するのは初めてである。由紀乃とはよく喋っていたが、俺と一緒の時は軽い挨拶程度で、まして俺が一人の時は会話もなく会釈するだけだから、面と向かって喋るのは初めてに近い。  あの時の由紀乃とは、最近になって二十数年振りに出会っている。しかも子供達も同じ道を歩み出していた。こんな雪解けの再会がなければ、この男とは黙って客の振りをして行き過ぎたかも知れなかった。
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