蛾になる

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 クラスの全員が彼女に恋をしていたし、誰もそれに疑問を抱いていなかった。ひとりひとりからぽろぽろと溢れる恋の音が教室中に転がっていて、積もった埃の隙間から甘い匂いが漂っている。逆を言えば、クラスメイトにならないと彼女の魅力には気がつけない。ただ少し魅力的な人、の範疇を出ない。それどころか、彼女の症状を知っていれば、忌み嫌うのかもしれない。同じ時間を過ごしていくうちに、変わり続ける彼女を見ているうちに、誰もが彼女に恋をする。これは、自然の摂理のようなものだ。  ゆき、という名前さえも美しかった。日々変わっていく彼女はまるで雪のように白いキャンバスで、そこに塗られる色は、どの色も美しい。どんな姿でも何よりも目を惹く。  私はそれをどう思っているのだろうか。少なくとも、羨ましいとは思っていない。彼女の精神的な強さには私が敵うはずも無ければ、自分が同じ状況になれば、彼女のように振る舞えるとも思わない。最早羨ましいと思えることは、その分その人に自分が近いと思っているからでは無いのか。最近そう思う。私は彼女とは反対側にいる。ずっと遠いところにいる。だから、憎いけれど、羨ましいとは到底思えない。  彼女黒い髪も、赤毛も、跳ねる栗毛も、自分の髪をかきむしりたくなる。全て抜けてしまえばいいとさえ思う。けれど、完全に彼女を嫌うことは誰にもできない。ただ、私は彼女を好きではなかった。嫌いだ、と言いきれないのは私の弱さだろうか。この思いは憎悪でもあり、嫉妬でもある。そして、私はゆきに恋をしていない。それだけで、この教室では特異だった。 「薫、今日は部活でしょう?寂しいな、一緒に帰りたかったのに。」  今の彼女はブロンドの巻き髪に、僅かに緑がかった青色の瞳。身長は百七十センチくらいだろうか。耳からふわりと落ちた髪の毛が、沈み始めた太陽に照らされてきらきらと光る。この姿で流暢に日本語を喋っていると、ハーフの芸能人のようだ。日本語が喋り辛いのか、喋る速度が少し遅く、発音が甘い。 「今月は、平日全部練習だよ。来月はまだわからないけど。……多分、来月も。」 「ああ、そういえば再来月大会だものね。うん、それは頑張らなくちゃ。」  私が淀みなく喋るのを嗜めるように、ゆきはゆっくりと喋った。そうだね、と頷きながら、滑らかな頬を見る。みんながそうなってしまうように、私も彼女を盗み見ている。羨望とも愛情ともつかない視線が彼女の周りにとげとげと刺さる。それも、たくさん。  全く痛くない視線が無遠慮に投げかけられられるのは、いったいどんな気分なのだろうか。私は痛い視線を感じながら、話を続けたそうな彼女の唇を見ている。  ゆきは、一万人に一人と言われる「蛹化病」だ。症状は名前の通り。月に一度か二度、体が蛹になり、体の全てが生まれ変わる。記憶は引き継がれるものの、五感、目の色、髪の色、肌の色、体臭、アレルギー、「体」がすべて変わる。蛹になっている間のことはよく知らないが、ネットの情報曰く、体が弱り、少しづつ膜が体を覆い、蛹のようなものに包まれて、その中で体が生まれ変わるらしい。蛹の間に触れることはできない。蛹に安易に触れると、蛹の中で死んでしまうことが多いからだ。(これは全部ネットの情報で、本当かどうかはわからない。)蛹になるたび、体が弱るため、多くの人が若いうちに亡くなっている。治療もなければ、薬も、原因もわかっていない。突然治ったという人もいるらしいが、なにしろ症例が少なく、その上、薄命のために、研究が難しいとされる。ないないづくしどころか、もはやこの死症状自体が「ない」ものではないのか、と言われているくらいだった。私が生まれた頃には既に多く知られていたが、父や母が高校生だった頃は、多くが乳児のうちに亡くなり、話題になっている間に患者の取材などは、一切できなかった。ゆきがこの歳まで生きているのも、ほとんど奇跡と言っても良いくらいだろう。十六年も生きている蛹化病患者は、そう多くない。らしい。  蛹化病患者の多くは、体が弱るだけでなく、精神的にも弱る。目が覚めたら全く違う体になっているのだから当然のことだ。自分の信じられるものは何も無い。この間まで見ていたものとは、全く違うものが鏡に映る。美しい容姿ばかりとは限らないし、何度も生まれ変わるのは、私たちには想像に難いほど辛いことなのだろう。  それでもゆきは、どの容姿でも、今までで一番美しいと思わせる。そして、その誰もが、ゆきではない。体が変わると同時に、彼女もただ記憶を共有しているだけの別人のように、生まれ変わるのだ。長い黒髪ロングの目力の強い時にはワガママに、そばかすの浮いた愛らしい時には無邪気に。美しい蝶であることは変わらないけれど、変わらないのはその魅力だけなのだ。  そういった能力が、ゆき自身だけのものなのか、あるいは病気がもたらすものなのかは私にはよくわからない。  なぜ彼女が私の隣に好き好んで立っているのかもわからない。一度だけ、この疑問を彼女に投げたことがある。
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