蛾になる

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 検査入院の名目で一週間ほど彼女が入院していたときだ。しん、という効果音が聴こえるくらいに静かな病院だった。バス、電車、バス。乗り継いで来た乗り物はどれも鬱陶しいくらいに音が響いていたからか、余計にその静けさが私を支配していた。受付で彼女の名前を言うと、看護師は一瞬だけ微笑んだ。それを意図的に隠したように、見えた。私は場所に倣って、黙ったまま頷いた。真っ白の床に浮かぶ薄汚いスニーカーが、漂白剤に浸かっているようにも見える。いつまでも白くならない靴を見ながら、マスコットのように、ペタペタと歩いた。誰とすれ違うこともないまま、彼女のいる部屋にたどりつく。  たくさんの花と果物に囲まれ、彼女はぼんやりとそこに座っていた。薄ピンク色の病院着から伸びる白い肌が、太陽光に照らされて光っていた。その眩しさに目を細める。その一瞬、最後に会った彼女の姿が見えた。黒肌の姿だ。黒肌に渦巻いた黒い髪。束になった長いまつ毛がぐん、と上を向いて、目の中に宝石が散りばめられていた。瞬きをする。そこに座っている彼女は、いかにもこの病院にピッタリと似合った薄い顔だった。よく見れば対照で白く見えていただけで、どちらかというと東アジアらしい、黄ばんだ肌だった。目には薄紫の隈が落ちている。薄い髪の毛に、薄いまつ毛、薄い眉。意識が朦朧としているようにも見えるし、それどころか、幽霊のようにも見える。写実的な絵のようだ。ゆきはまだ私に気づかず、布団を握りしめ、何かに耐えるように俯いていた。 「こんにちは。」  彼女はその声でようやく私に気がつき、唇だけで微笑んだ。その姿は酸いも甘いも味わった二十代後半の草臥れた女性のように見えた。(実際は、蛹になっても体だけ歳をとることはないので、そう見えた、というだけだ。)少なくとも、十六歳のか弱い娘には程遠い。つま先がひんやりと冷えるのがわかる。 「こんにちは、退屈していたところなの。学校はどう?話を聞かせて。」  彼女はそう言うと、椅子を掌で指した。以前の彼女ならどうしていただろうか?たぶん、来てくれて嬉しい、と立ち上がり、ハグをして、頬にキスをした。今の彼女にそんなことは似合わない。少し棘の含んだ声で指図するか、弱々しくしているのが似合う。病院にいるのだから、弱々しいのはうんざりなのかもしれない。私は浅く顎を引いて、椅子に腰掛けた。快晴だった空に、白い羊雲が流れてきている。 「何も面白いことはないよ。原田さんがいないと、みんな、退屈してる。」 「私の方が退屈だわ。」彼女は顔を動かさずに呟いた。  高いベットにいる彼女を見ると、三白眼だったことに気がつく。気が強いのは、この目のせいだろうか。 「どんな検査をするの?」 「そうね…血を沢山取られたり、写真を撮ったり。色々。」  彼女はまだ、私を見ていない。 「大変そうだね。」  いいえ、という代わりに、彼女は首を振った。その拍子に、私と少しだけ目が合う。黄色の花が視界を遮り、うまく彼女の顔が見られなかった。 「原田さんはどうして、私を呼んだの?」  色濃く、原田さん、と呼んだ。この人は以前と同じ人だ、と自分に言い聞かせるように。彼女はようやく私を見ると、最初と同じ表情のまま、口を開いた。 「仲良くなりたかったから。……薫ちゃんは、それが不満?」  どきり、とした。心臓が早まった。理由はわからない。「カオル」と、豊かな発音で私を呼んだひと。色も厚さも薄い唇から自分の名前を呼ばれると、ひどく安っぽい名前に聞こえて、恥ずかしくなった。 「不満ではないけど、不思議だから。」 「なぜ?」 「あなたが他の誰より魅力的だから。」  じっと見ていた唇から視線を外し、蔑むような三白眼に目を向けると、彼女はすでにこちらを見ていなかった。 「薫も、そんなにつまらないことを言うのね。」  肯定することも、否定することもなかった。私がゆきを褒めると、どんな姿でも大抵、同じような表情をする。もしかすると、私が彼女を同一人物だと認識するのは、この表情をしたときだけかもしれない。むっとしたような、悔しがるような、切ないような、失望したような横顔。彼女の表情の中で一番に魅力的な表情はこの顔だと思うけれど、私以外の前で、この表情をすることはない。だから私はこれを大事にしていた。なんとしても彼女を認識したいときにだけ、彼女を褒める。失った輪郭が線を持つように、彼女はその顔が一番に美しい。部屋を出てから、彼女の部屋に花の臭いが充満していたことに気がついたのだった。  病院に訪ねてから、ゆきは私を「薫」と呼んでいる。まだ、あの時から一ヶ月も経っていない。他のクラスメイトのことは姿によって呼び方が変わるけれど、私だけはいつでも「薫」だった。少し前までは、彼女に名前で呼ばれる度、いじめられる原因になるのでは、と危惧していたけれど、冷静になればそんなわけがなかった。この空間で彼女は女王なのだ。女王が民をなんと呼ぼうと、他の民は気にしない。そんなことより、自分が今日なんと呼ばれるか、自分が呼んでもらえるか、そんなことにしか気が回らないのだ。さらにいえば、彼女が何度瞬きをしたか、何で微笑んだか、そのことしか気にならない。他人に嫉妬させるほど、彼女のレベルは低くない。  ブロンドのゆきは、楽しげに口角を上げていた。唇は厚い。ぽってりと膨らんだ唇が弧を描き、瞳は輝いているものだけを写している。美しいと思うことと、恨むことは別らしい。何故だろう。美しいものには、何事にも勝つ。何事にも、負けることは無い。それは、相手がなんであろうと戦いの結果は変わらない。それが深い憎悪であろうと、嫉妬であろうと、なにも。勝てることは、ない。
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