蛾になる

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「原田さん、今いいかな?」 「もちろん。どうしたの?」  ゆきは白い歯を見せて笑うと、声の方へ振り向いた。机の横に立つ彼を、私は見ない。興味が無い、というポーズを取った。 「えっと、その、」 「うん…。」焦れったそうに彼女が言う。 「チョコ好き?」 「好き!大好き!今の私ね、糖分が凄く好きみたいで。肌荒れしにくいのはいいんだけどねー。」  くすくすと彼女が笑うと、ふわりと空気が変わった。チョコレートのように甘い空気が漂う。 「貰ったチョコがあって、俺、チョコ苦手だから。どう?」  視界の隅で、人口の金色が輝いた。 「嬉しい!いいの?!これ、ゴディバでしょ?えーっと、四千円くらいするんじゃない?」 「貰ったものだからわかんない。それくらいするのかな?」 「ふふ、変ね。でも、私が食べた方がチョコも喜んでくれるよね?」  悪戯っぽく、彼女が笑う。頬を赤らめ俯く彼の姿が安易に想像できる。 「俺も、そう思ったから。あげる。」 「ありがとう、大事に食べるね。」  彼女が愛おしげに目を落とす。ざわめくような音の波が一瞬襲って、すぐに消えた。なんのざわめきだったのだろうか。彼女が受け取ったことに対するざわめきだろうか?それとも、目を伏せた時の、一瞬の憂いを帯びた表情だろうか。きっと両方なのだろう。 「薫も食べるでしょう?」  ゆきは少し長い爪で蓋を外すと、ほう、と息を吐いた。私は首を振る。 「どうして?チョコ、好きでしょう?」 「もう部活行くから。また明日。」  そう、と寂しさを縫い合わせて出た言葉で頷いた。私は立ち上がって彼の横をすり抜けた。ゆきがチョコレートを含む、赤い唇だけが妙に印象に残った。無理やりに彼女を見た、といってもいいだろう。  彼は優しい人だった。だった、というのも変かもしれない。彼の優しさが変わったわけではないのだから。  彼の走る背中が好きだった。なんだって興味のなさそうな顔が好きだった。彼の汗の滲んだ男らしい匂いが好きだった。小さいのにほねぼねしい手のひらが好きだった。私に投げたタオル。口をつけたボトル。擦り切れたシューズ。どれをとっても、不器用で彼らしい、ありきたりなところが好きだった。  クラスが同じになると、彼も当然、ゆきに恋をした。それを責めることはできないし、ゆきは何も悪くない。「勝手に」恋をされて、「勝手に」妬まれているだけなのだから。それでも、唯一彼女を好きにならなかった私に「勝手に」近づいてきたのは、あまりにも皮肉がすぎるんじゃないだろうか?  それとも、彼女を恨みきれないのは、私もどこかで彼女に恋をしているからなのだろうか?彼がゆきに贈った金色のチョコレートと、私が彼に贈ったチョコレートが同じなのは、どうしてだろうか。彼がチョコレートを嫌いなのを、私は初めて知った。あのチョコレートは、五千円した。冬の日に、二月十四日に渡したチョコレート。こんなに温かな春の陽気の下、あのチョコレートと再会するなんて、思ってもいなかった。  私はゆきに恋をしない。ゆきは私に恋をする。彼はゆきに恋をする。ただ、それだけだ。ただそれだけ。  走り出した。景色を置いて走っていくと、何もかもを置き去っていけるような気持ちになってくる。余計なことを考えなくて済む。クラスでは彼女が女王でも、トラックでは私が女王になるために走る。一番になる。一番にゴールテープを切るためだけに、すべてを忘れる。すべてを置いていく。  大きく息を吸い込んで、足を動かし続ける。女子ではとっくに一番だった。長距離で有利になるにはとにかく体が軽い方が良かったから、走り続けるだけの減量もした。一緒に走るのは男子だけだ。どれだけ必死で走っても、男子に混じって一番になることはない。せいぜい、真ん中がいいところだ。 「橋高、お疲れ。」 「…ありがと。」  ちらりとも彼を見ずにボトルだけを受け取った。彼は例外的な男のマネージャーだった。もちろん前例はないのだが、前例がないからといってダメだというわけでもなくーーこれは昨今の問題のせいかもしれないけれどーー、彼はマネージャーとして陸上部に所属している。 「今日、調子良かった?」  米谷は褒めるでもなく、そう言った。 「タイム良かったの?」私はちらりと彼を見る。 「最近では、一番良かったけど。」 「…ふうん。」  張ったふくらはぎを伸ばして、意識しないようにした。痛むところがないか入念に自分で確認する。傷んでからでは当然、遅い。 「最近伸び悩んでただろ。」 「まあね。前が伸びすぎてた、って言えるけど。」 「確かに。」  米谷は冗談だと思ったようで、少し笑った。私は冗談のつもりはなかったので、受け取ったドリンクに口をつけて誤魔化した。さっきよりも心拍数が高い。見えているはずの景色が僅かに霞んで見える。他人事のように自分を観察しているのが、おかしい。  顔を上げると、米谷は他の部員にドリンクを渡し歩いていた。少しだけ私に笑いかけた顔を思い浮かべると、ずいぶん背中が遠く感じた。
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