蛾になる

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 彼女が校門に立っていた。通る全員が密かに、隠す気もなく、彼女に視線を送っていた。なぜいるのだろうか、というのが疑問だった。すっかり日の暮れた中でも、彼女は輝いて見えた。すらっと足が長く、退屈そうに石を蹴っているのが何かの絵画のようにも見える。  誰かを待っているのだろうか、と思う。冷静に考えると彼女を待たせるような人は居ないはずで、誰かを待たせている彼女しか想像できないのだが、この光景が「待っている」という言葉にあまりにピッタリで、私は自然とそう思った。俯いたまま過ぎ去ろうとする。 「薫!…お疲れさま。」 「ゆき?」  今気がついた、という風に目を開く。ゆきはどこか安堵したように微笑んでいた。 「私、薫を怒らせてしまったと思って。」  すべてを見透かすような力は持っていないらしい。 「帰るんでしょ?途中まで送るよ。」  そう言うと、彼女は今度こそ、本当に安堵して微笑んだ。 「ありがとう。一緒に怒られてくれる?」 「それは、断るって選択肢ある?」  ゆきは珍しく声を上げて笑った。すっかり暗くなった空を背景に歩く彼女はまるで背景から浮き上がっているように見える。偶然に触れた手が、驚くほどに冷えっていた。体が弱い彼女をここまで冷やしてしまったのか、と思うと怒られることが妥当にも思えた。  謝ろうと彼女を見る。彼女は手のひらよりも更に冷えた視線を向け、一国の王女のように私に手を差し出した。白い手は何処かに収まるべきで、私がその手を取るべきだと思っていたのだ。そして、彼女もそれを望んでいるとわかった。私は彼女の願い通り、腰を折って手を取った。 「私にはあなたしかいない。」  甘い声でゆきが囁いた。頭上に降って来た声は、圧倒的な力がある。甘いのに、強さがあり、儚さがあった。私は黙って冷たい手を握る。脳が蕩けるような声が、じんわりと頭の中に溶けていった。熱いトーストの上のバターのように、じゅわじゅわと消えていく。言われて、それが私の脳の中に溶けていったという跡だけが残ったままに。つめたい手のひらに、まだ暖かい夜に、解けない約束。つまり、彼女は私に魔法をかけたのだ。美しさ、という魔法。  私には友人が居ない。絶対に一人になりたくない、と思っていた時もあったし、流行りに乗ろうとしたときももちろんあった。今だって、クラスメイトが友人同士で出掛けているのを見ると、寂しいような、切ないような、心がぐっと苦しくなる。冷たい、固まったご飯を食べているような気持ちになる。それが無くなった訳では無いけれど、感覚は麻痺した。画面の中で流れてくるたくさんの美しい人、本物か分からない人、個性を主張する人。たくさんの正しい人。好きを誇示することで、自分が何者かを確認しようとする。その影で、嫌いなものを批判して、悦に浸っていること。それがどれだけ、バカらしいことか。そんな人生が、どれだけ薄いか。  すべて、ゆきが変えた。変えてしまった。  コロコロと変わる容姿は画面の中の誰よりも魅力的で、画面と睨めっこするより、彼女を見ている方がよっぽど有意義に思えた。冷たい手を握って、尖った鼻先を見る。  彼女も同じじゃないか、と思う。たくさんの姿に変わって、それが全て愛される。クラスメイト以外の批判を受けながら、それを知らない顔をする。時々、人と同じように、傷ついた顔もする。  彼女は、動画サイトの役割を一人で担っているのではないだろうか。クラスメイトはファンで、私はファンではない人。ただの視聴者。だから、彼女は私に意見を求めているのかもしれない。唯一のアンチとも言える私に。彼女が傷付けたただ一人の人間として。みんなが握りたいはずの冷たい手を、そっと離した。
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