222人が本棚に入れています
本棚に追加
MBA
それからは本当に忙しかった。こちらの仕事の引継ぎと渡航手続き、ビザの取得に、向こうでのアパート探しに引越し準備。
陵からは連絡がきてはいたけど、極力、接触面を減らすことに終始していた。
なぜか陵も妙に出張が増えているらしく、東京というか日本にいないことも多かったし。
あのラスボス、陵の会社にも手を回したのかもしれない。恐るべし。
おかげで、丁度、陵が長期の海外出張に連行されている隙に、私は前倒しで赴任先に出国するという荒業を成し遂げることが出来た。あっ、これって、前と同じだと思ったけど、考えないことにした。勿論、その後、陵からは怒涛のクレームがきていたけど。
それでも、もう会えなくなるんだからと、渡航前に何度もデートに誘われていた。全部を断るわけにもいかなくて、時間は健全なランチタイムに絞って何度か付き合った。心残りが増えるのがイヤだったんだ。
私は出来うる限り、陵のことを考えなくて済むようにお仕事を今まで以上に頑張った。だって、私には仕事しかなくなってしまったから。それに初の海外勤務で、緊張感と同時にワクワク感なんかあったのも事実。慌ただしく日本を発ち、赴任先にやっと腰を落ち着けてからは、仕事に対して精力的に動けていたと思う。通勤途中に見つけた朝早くからやっている屋台で朝食をとってみたり、お気に入りのカフェを見つけることも出来た。そこそこ充実してきて、週末には一人で観光地なんかも訪れる余裕もやっと出てきた。
そんな時だった。まだ、海外勤務になって気持ちにすこし浮ついたところが抜け切っていない頃。だって、赴任してまだ6カ月ちょっと。そのくらいの浮揚感は許されるよね?
いつものように週初めの朝のミーティングが始まった。コーヒーを片手に社員たちが会議室に集合している。
「先週末、行われた選挙で、政治情勢がかなり変わる可能性が出てきました。それに伴い、経営マネージメントとも話し合った結果、会社の方針でここは閉めることが決定しました」
支店トップの開口一番の言葉に耳を疑う。やっと現地の暮らしにも少しずつ慣れてきた時だったし、これから本格的に新規顧客も開拓してなんて、丁度リストを作成していたし、今年度の業務目標をまとめていた頃だった。
まだこちらで業務を開始して、半年が過ぎるかすぎないかぐらいだよね、なんで?
突然聞かされた話に頭が真っ白になる。
それからも説明は続いていた。今回の大統領選で与党が変わったというニュースは勿論、知っていた。すべてはそれが原因らしい。政府側が外資規制を強化する方針に転じたのだ。そうなると、これからの業務展開がかなり厳しくなるだろうことは予想はしていたけど。でも、決断が速すぎないか?
そうなると、私たちの最大の関心事項は私たち自身のこれからの身の振り方に転じてくる。今後の処遇についても説明が始まっていた。基本的に日本から出向してきている社員は、帰国しても、会社で元のポジションに戻ることは難しいこと、このまま退職する場合は割り増しの特別手当も払われるし、契約期間分の給与は払われること。会社とは1年ごとの契約更新という形だったから、あと半年分の給与は保証されるってことらしい。1年ごとに契約更改をしていたから、当然と言えば当然なのか。現地で雇用されたスタッフも全員、解雇。
それにしても・・・・たった半年?
現地政府の方針、特に外資の金融機関に対する法律が厳格化されるのは避けられないらしいけど、支店を閉めることになるほどとは。まだ半年、だからこそ出来た決断なのかもしれない。傷は浅いうちにっていうことだろうか?こんなことになるなんて、今日、初めて聞いたし・・・私はどうすればいい?
日本に戻る?
そう考えたところで、流川玲子との約束を思い出していた。
1年は日本を離れていろと言われていたけど。
でもこれは非常事態だよね?
約束を反故にしたところで、今回のケースはOKだろう。
あと半年分の給与は保証されているから、滞在を延ばすことは出来ないこともない。今すぐ帰国しても私を迎え入れてくれる場所は、会社にはないと言われたし。どこにも戻れる場所はないんだろうか?頼めば、部署は違っても、同じ会社に戻れないか?それとも転職活動をさっさと始めるべきか?
とはいえ、今回の支店閉鎖を巡る特別手当は結構いいし、魅力的ではあることは事実。こんな長期に休めるのは、人生最後かもしれないから、世界一周とかしちゃう?いろんな考えが浮かんでは消える。
ミーティングを終えても、なかなか立ち上がれないでいる私の耳に、現地スタッフの会話が漏れ聞こえてきた。
「これを機会に大学戻ろうかなって思ってる。学費も支払い保証の給与の範囲内でいけそうだし」
「私も戻ってMBAでも取ろうかと思って」
やっと最近フレンドリーにコミュニケーションを取れるようになっていたジェシーだった。
「あれ2年かかるでしょう?学費も高いし」
ジェシーと一緒にいるのはリーさん。残念ながら、リーさんとはあまり会話したことがなかったな、なんて思いながら耳をそばだてる。
「学費は今回の特別手当と奨学金でどうにかなるかも。それにイギリスなら1年で取れるんだよ」
MBA?1年?いつの間にか、聞き耳をたてまくっていた私は、無理矢理、彼らの会話にお邪魔することにした。
「ジェシー、MBAを1年で取れるって本当?私も詳しく知りたい」
いきなり会話に強引に割り込んだ私に、ジェシーは嫌がることなく詳細を教えてくれた。彼女の説明を聞きながら、とっちらかっていた私の考えはまとまっていく。不確かな将来よりも、堅実な未来を私はとりたい。自分探しの旅に出る前に、確かな生活基盤を確保しなきゃ。私の決意は固まっていた。
最初のコメントを投稿しよう!