紅い雪

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二  時刻は逢魔時の別名をいただく黄昏の頃。世俗小児を外に出すことを戒む時分であるが、寺の本堂には、庚申待かと見紛うほど多くの人がつめかけて、てんでに酒肴を持ち寄り、楽しそうに騒いでいる。本堂に至る参道には左右に古ぼけた破れ提灯が吊り下げられて、訪れる人を夢幻にも似た淡光で迎えていた。  暫くの時を経て、空を彩る朱光が遠く山の向こうに消えていく。野を里を駆け巡る風に流されて、怪しげな羽音を響かせる烏ども。その姿を見ることは、もはや叶わぬ。世は、どっぷりとした夜闇に、その身を埋めた。 春半ばとはいえ、日が暮れれば風冷たく、無明に塗り潰された空にきらめく星々の光も、澄み切った寒さに震えている。空に雲はなし。今宵、件の紅い雪が降ることはなさそうだ。  本堂での賑やかしい宴は早くも酣といったところだが、うちの一人、胸元まであるかと思われる白髭を蓄えた、仙人然とした老翁が、どっこら重い腰を上げ、千鳥足もここまでは酷くないというほど覚束ない足取りで、よろよろと上座に立った。それを見て、やんややんやと囃し立てる周りの人。雪のそれと同じくらい紅く染まった顔を眼前の灯に照からせ、鼻を膨らませた老翁が、大儀そうに右の手を擡げると、その声もぴたりと病んだ。老翁を見るどの目も酒気を帯び、また多大な期待に胸を膨らませている。  そろそろ始めようか――老翁はそう言った。  酒焼けしているが力強い、澄んだ声で耳に心地よく響く。 「今宵、集まってもらったのは、他でもない。皆が知っていることだが、この冬、高田には不思議なことが起こった。時まれに天頂から降りおり、村を白く染め上げる雪……だが、今年は村は、白だけには染まらなんだ。紅い雪……そう、血の如き真っ赤な雪に、高田は毒々しく染め上げられた。悪い兆かと誰もが恐れ、恐れは疑心を生んだ。根も葉もないことを実しやかに囁いて人の懐を狙う、あさましい暗鬼どもにとっては、格好の餌であった」  立ち上がった時こそ、酒気のために高揚の極みにあったらしい老翁の顔が、言葉を紡ぐ間に、次第に神妙さを取り戻し、憂いの色を浮かべるようにさえなった。その熱弁を聞く人々の顔にも、同様の色が浮かぶ。その暗鬼とやらに金銭まきあげられたらしい家の女房が一人、無念の涙を流して、口惜しそうに洟をかんだ。  一息の間を継いで、老翁は再び話し始める。 「不穏な冬空は遠く過ぎ、今はもう穏やかな春が訪れた。――が、我らの憂いは、まだ、少しも薄れてはおらぬ。あの紅雪が何かしら天変の前触れだったなら、これから先どんな恐ろしいことが起こるか知れたものではないのだ。それに、今年はこれで済んでも、次の年も同じようなことが起こらぬとも限らぬ。今後このことで泣きを見るものが出ないよう、我らは此度の紅い雪の謎を、このままにしておくことはできぬ」  あちらこちらから同意の声。中には、そんな分かり切っていることはどうでも良いから、さっさと始めろ――と、野次を飛ばす者も。老翁は何を言われても、平気の平左といった表情。軽く咳払いして、話を続けた。 「ここに数名、紅雪の謎を解いたと豪語する者たちがいる。これから、一人一人、各々が達した事の次第について、聞かせてもらおう。彼らは今宵のため、労を惜しまず脳漿を絞り、頑張ってくれた。その労を讃え、神妙に聞いていただきたい」  長い老翁の前置きが済んで、入れ替わりに上座に立ったのは、同じように白髭を蓄えた翁であった。始めの老翁に比べると腰が伸び、聊か逞しい体つきをしている。  自らを与作と名乗るその翁は、咳払い一つして、話し始めた。これほど大勢の前で声を出すという経験がないのだろう。緊張の体で、声も上擦っていた。 「ヱー、儂が思うところには……」  素っ頓狂な声に、観衆から押し殺した笑い。口上を述べた老翁が一睨みして、本堂の中はたちまち、神妙な気配を湛え出す。 「此度の紅い雪とはまさしく、村の皆が囁くところの、天変の前触れである。と申すのは他でもない。儂はこのことを確かめるために、江戸まで知己を尋ねた。江戸で貸本屋を営むその知己は、儂の話を一通り聞いたうえで、次のように申した。似たような話が、『宇治拾遺物語』と呼ばれる書の中にあった――と。この書は、蘭学などのような高尚な学問書というわけではない。古に語り継がれた話を、まとめたものなのじゃが、高尚でないからと言って、そこに書いてあることに何の価値もないというわけではなかろう。して、そこに、卒塔婆の血、なる物語がある。これは唐土の話なのだが、山の頂に刺さった卒塔婆に血が付いたがために、山が砕け崩れて、麓の村を押し潰してしまったという話なのじゃ。儂は、このことを聞いた時、すぐさま此度の紅雪と繋げ合わせて考えた。雪はどこから降る……空からじゃ。して、山頂に卒塔婆があるなら、必ずやそれは紅く染まっているはず。此度のことと重ねて考えるならば、山頂の卒塔婆の血とやらは、天より降りきたるものが付着し、残ったものであって、それは即ち天の不穏を意味すると見て、まず間違いはないのじゃ。故に、儂はこれを何かしらの凶兆であるとし、各々に注意を呼び掛けたい」  エヘンオホンと勿体ぶった咳払いで説明を終え、与作は、どうだと言わんばかりの得意顔で、周囲を見回した。誰も口を開くものがない。どの顔からも酒毒の色が消えて、血の気が失せ蒼褪めている。  水を打ったような静けさ。気の遠くなるような寸時を経て、おずおずと口火を切る者がいた。 「して、与作爺……紅い雪が教える凶兆とは、いったい何じゃろか」  それはまだ分からぬ――と与作爺は片眉を吊り上げて言った。その眼差しに、要らない詮索をするなと釘を刺す色が見える。問うた男は肩を竦めて引っ込み、暫くの間あちこちで物憂げに囁く声が重なりあう。  何の凶兆じゃろか。山が崩れるのか。いや、村には崩れて困るような背の高い山はない。となれば海か。高波が押し寄せるのじゃろか。だが海は穏やかだぞ。否々海ほど油断ならぬ奴はない――そういった声の中で、再びおずおずと上がる手。先の男とは違った、目が大きくて利発そうな青年で、声にも顔にも酒の気に侵されていた様子はなかった。  まだ何かあるのか利吉と、鼻を膨らませる与作。利吉と呼ばれた青年は頷いて、周りに遠慮しつつ立ち上がった。そうして躊躇いながらも与作爺の顔をしかと見据えて、言葉を紡いでゆく。 「与作爺の言うことは、よく分かるのだが……俺には、その卒塔婆の血とやらの話と今度の紅雪との間には、何もないように思える。あれが凶兆であるか否かはともかくとして、少なくとも、爺の言ったようなものではない」  何を根拠に――と、目を丸くする与作爺。周囲も驚いた顔で二人の顔を見比べている。 「儂の話が誤りだと申すなら、そのわけを言うてみよ」  ぴしゃりと言い放つ与作爺。握りしめた両の拳が、わなわなと震えている。利吉はそれを見て、いっそう顔に躊躇いの色を見せた。それでいて引きさがる気はないらしく、先の与作爺同様、勿体ぶった咳払いを響かせ、話始めた。 「俺は与作爺や、今宵ここで話をする者とは違って、紅い雪が降る理由なんぞ興味はない。だが、今うちで寝ている爺様がふと漏らした言葉があってな。それがどうにも頭を離れぬから、ここで打ち明けるだけのことだ」  妙な前置きに人々は首を傾げる。と、件の長白髭の老翁が、ぽんと手を打って、そうじゃそうじゃ、と声を上げた。 「そういや利吉のところの爺様が、村一番の古老であったな。儂よりずっと昔から、この村で暮らしておる。村の仕来りにも歴史にも、誰よりも詳しかったはず。……だが、利吉、お前のところの爺様は、すっかり気力萎えて、殆ど寝たきりなのじゃなかったか」 「ああ。だが、それでも一日のうち、数刻は起きている。起きている時は前と同じように、話もすれば食いもする。その起きている時を見計らって、ちと訊いてみたことがあるのだ。すると爺様、平然とした顔で言った。前にも、こんなことがあったらしいぞ――とな」  周囲のざわめきが大きくなった。与作爺も憮然とした表情で、それは真か――と問うた。利吉は頷いて、 「もちろん爺様が生まれていない頃のことだぞ。この村で、俺の爺様一人が百年も生きているわけではないからな。どこかで古い覚書を読んだことがあったそうだ。知っての通り、爺様の物覚えの良さときたら化物染みている。何でも建武九年のことらしい」 「それはいつだ」 「わからんよ。爺様にもわからなんだ」 「で、何と書いてある」 「『正月紅雨降』と書いてあるのだ。その時も、天変の前触れだとか言って大騒ぎしたらしい。結局、何も起こらなかった。虫の害が酷かっただけだ。そんなものは天変でも何でもない」 「つまり紅い雪が降ったからと言って、特別悪いことが起こったためしは、ないのじゃな」  聴衆の一人の言葉に、利吉は頷いて見せた。 「雪と雨とでは違うが、卒塔婆の血などを持ち出してくるより、よっぽど納得できると、俺は思うがな」  それを聞いて、与作は唸り声を上げた。一同は相変わらず、憮然たる表情であった。建武九年――その年号が、ちっともぴんと来ていないようだ。が、それでも利吉の言うことには、与作爺のこじ付けにはない重々しさがあって、皆すっかり、それに中てられてしまったようなのだった。 利吉は与作に軽く頭を下げて腰を下ろした。  与作は唇を噛み締めつつ、肩を聳やかして、上座から下りた。そうして本堂隅にどっかり腰を下ろすと、腕を組んで一同に背を向けてしまった。苦労して組み上げた説が、一人の若造のために灰燼に帰した悔しさ、見当違いの話を滔々と語った恥ずかしさ……そんな、もろもろの気持ちに苛まれて、誰とも顔を合わせたくない様子である。  気まずい空気はすぐに晴れた。不貞腐れた与作爺のことなど、誰も気にかけなかった。  次の者を、という声がして、やいやい喝采を受けつつ、新たな一人が上座に立った。  今度は利吉と同年の男で、不思議なことにこの季節に真っ黒に日焼けしている。それが灯を受けて仁王立ちしている様は、命を持ち、独り歩きした誰かの影法師を、目の当たりにしているようで、不気味であった。  権蔵、一つ頼むぞ――と、長白髭の老人。権蔵は軽く会釈して話し始める。筋骨逞しく、日焼けもあって人か熊か判然としかねる風貌。だがその声には思いの外、知性の輝きがある。 「俺が考えるところでは……此度の紅い雪とやら、天変の前触れでも妖怪変化の仕業でも何でもなく、単なる目の迷いでしかないのだ。それを恐れるのは、俺たちが無知なためだ。無知であるがために、事触のような犬畜生に狙われ、とんだ迷惑を被った。それを思うと残念でならぬ」  そう言いながら権蔵は、聴衆の中で、この話になるとやたら洟を啜る音を立てる年増の女を気の毒そうに見る。そうして声を励まし、 「与作爺の話みたようなことを、すっかり信じ込んでしまうのが、俺たちが無知である証だ。これが俺たちの村の姿なのだ。だが爺がこのような話を真と信じ、俺たちに語ったことは、罪ではない。与作爺の――今までの、俺たちの中では、与作爺が説いたような話こそ真だったのだ。だが、もはやそうした話に背を向ける時が来た。迷信盲信の類は捨ててしまおう。紅い雪――これとても何ら怪奇の類ではない。これを怪奇と申す者たちは、ならば何ゆえ、雪が白いものなのかということについて、考えたことがあったのだろうか。そもそも雪とは何ぞ。色だけを見れば、雲の切れ端のようにも見えよう。雨が氷になったものという話も頷けよう。だが、そのいずれにしても、雪が何故に白でなければならないのかという問いの答えには、まるでなっておらん。しかもその雪も、よくよく見れば白ではなく、無色透明だ。手に触れた雪を眺めれば分かる。白ですらないものが、赤色に変わろうと何の不思議があろうものか。そもそも、雪が白であると決めなければならぬ理由とて薄弱なのだから、それを怪奇と見ることが、既に見当違いなのだ」  権蔵はそこまで言葉を紡いで、どうだと言わんばかりの表情を見せた。そして、聴衆の端から手が挙がったのを見ると、にんまりと唇の端を吊り上げて、まァ待て――と宥めるように言う。 「もう少し言わせろ。これまでの話でも分かる通り、雪は白色と必ずしも決まっているわけではないのだ。となると、考えるべきは、雪がどうして紅色に見えたのかという、この一つに尽きよう。俺はここ数月、いつも外に出て空を眺めていた。晴れた日を選んでな。そうして気付いた。村の衆も、とっくに気付いているだろうが、紅い雪が降るのは決まって黄昏――逢魔時であったことに。というと、それ見ろ、やはり怪魔の仕業ではないかと、焦燥に決めつけてしまう者たちがいるだろう。まァ少し待ってほしい。俺は外に出て黄昏を眺め、その美しい朱の光を浴びてすごした。そして周りを見回すと、ふとあるものに目が止まったのだ。それは、雪解けて草の上に滴った露であった。それが黄昏の陽を受けて、何ともいえぬ美しき朱に染まっていたのだ。ちょうど、ここに集う皆の顔が囲炉裏や灯を受けて赤々と輝いているように」  権蔵にそう言われて、聴衆は互いの顔を見た。なるほど、確かに囲炉裏や灯を受けて、みな一様に猿みたく、赤く染まった顔をしている。闇が周囲に立ちこめば立ちこむほど、その輝きはいよいよ鮮やかに浮かび上がってくるのであった。  これが事の次第だ――と権蔵は胸を張って言った。黄昏を浴び過ぎて真っ黒く日焼けした顔は、得意の色に満ち満ちていた。 「簡単なことだったのだ。どんよりとした雲の切れ目から、黄昏の鮮やかな光が覗いて、降り落ちる雪がその光に当たって、赤く輝いたのだ。さっきも言った通り、雪は白と決まっているわけではない。氷や水が透き通っているように、本来は無色透明なものなのだ。それが黄昏の光を受け、赤に染まっただけなのだ。怪異でも何でもない。曇天と黄昏と雪……そうしたものが重なり合っただけのことなのだ」  そう言えば――と、聴衆の中から声がした。権蔵は、今度は頷いて、何だと問いかける。 「赤い雪が降り落ちてくる黒雲の切れ目――確か、龍が泣いたように真っ赤だったはずだ。あるいはそれが、黄昏の光だったかも知れぬ」  そう言うことだ――と権蔵は大様に頷いて見せた。聴衆は暫時、言葉を失って権蔵の顔を見上げるばかりだった。その顔つきは揃って、あんぐりと口の空いた間抜けで情けないものであった。堰を切ったようにとめどもなく滔々と語り続けた権蔵。彼の話をすっかり嚥下できた者が、はたして何人いたことやら。  だがそれでも、権蔵が難しい言葉を並び立て、紅い雪の怪異を解き明かした事だけは、場の雰囲気と言おうか、そうしたもので知れるのである。そして彼らにとっては、それだけで、もう満足なのであった。紅い雪が、凶兆でも怪魔の仕業でもないと判然した。それだけで、じゅうぶんなのだ。  長白髭の老翁が立ち上がり、権蔵に惜しみなき賛辞を送ると、聴衆もそれに倣って、口々に権蔵を讃え始めた。瞬く間に権蔵は、一躍ときの人となった。酒の揺れるかわらけを掲げて、ぐっと一気に呷る。  だがその得意も、長くは続かなかった。 「しかし権蔵よ――俺にはどうしても一つ、腑に落ちんことがあるぞ」  紅い雪の正体を明かした喜びにワッと沸く周囲を憚るように小さな声ではあるが、芯の座った、はっきりそうと聞き取れる声だった。  権蔵はぎろりとその方を眺め、苛々とした声で何だ弥太郎と吐き捨てた。立ち上がったのは、権蔵と同じ背丈だが歳は少しばかり若い男で、呼びかけた時の声色や表情から察すところ、二人は顔馴染みのようである。 「お前の話には納得できるところもあるが……一つ、すっかり抜けている部分がある。と申すのは他でもない。お前が話した通りに、紅雪が降るのだとしたら、曇天の裏に黄昏の陽光が隠れている日全てに、同じように雪が降っていなければならぬはずだ。夕陽の光を受けて紅い雪が降るという、その話を信じるならばな。だが、先に利吉が言った通りで、今年以前に紅雪が降ったためしは、建武九年とやらの一度しかない。それは、いくら何でもおかしいのではないかと、俺は思うのだ」  この時の権蔵の表情ほど、情けなく哀れなものもなかろう。弥太郎が突いた、たった一つの瑕によって、組みあげてきた全てのものが無駄に消えた。残ったものと言えば、その努力を讃える顔の日焼けくらいのものだが、それも今となっては忌まわしい屈辱の証でしかない。  権蔵は唇を噛み締めると、何も言わず大股でその場を歩み去り、本堂の扉を蹴り開いて出ていった。夜風が入り込んで灯の幾つかが消え、扉を蹴った音に驚いて、穏やかな寝息を立てていた赤子が泣きだす。暫くは赤子の泣く声と、それを宥める母の声、そして方々から響く溜息の音のみが聞こえていた。  どんよりと立ち込める翳は、夜闇のためばかりではない。誰もが憂いを眉間に湛えて、風に揺らぐ火を見つめている。談義が始まる前の酒宴の賑やかさが、百年も前の出来事のような閑散ぶりであった。  やがて、件の長白髭の老翁が身を起こし、そろそろと切り上げようか――と沈んだ声で言った。けっきょく、何も分からなかった。そんな虚しさと募る不安とで、十歳も二十歳も一気に年取ったような萎れっぷりであった。  本堂に集う者たちも頷いて、めいめいに帰り仕度を始める。――と、その時だった。 「少し、少しだけ待ってくれぬか。拙僧にも一応、考えるところのものがあるのだが」  先の二人に比べると弱弱しく、まるで自身がなさそうな主張。もし、与作か権蔵の話に人々がすっかり納得していたなら、顧みられることはなかったであろう。藁にも縋りたい気持ちの人々は、それを聞くとぴたりと動きを止め、目を見開いて声のした方を見た。  そこから立ち上がったのは、柳のようにひょろりとした若い男で、法衣を身にまとうていた。名を蓮妙といい、ここの住職である。  蓮妙が立ち上がったのを認めた人々の顔が、ぱっと華開いた。彼らは、もはや、自身と同じ生業の者には希望を持てなかったのである。村の者が額を寄せて考えたところで文殊にはなれはせぬ。より深い知見を持つ僧に頼るより他、残された道はないのだった。  長白髭の老翁も、ほっと安堵の色を浮かべて蓮妙を上座に誘った。今いる場所で話すと固辞しつつも、強く推されて聴衆の前に立った蓮妙は、耳に心地よく響く練れた声で、静かに語り始めたのである。 「権蔵殿の話にも与作殿の話にも、拙僧は感服した。二人の努力には、惜しみない賛辞を送りたく思う。だが悲しい哉、二人の話にはそれぞれに、村の衆を満足させ得ぬところがあった。それゆえ、まだ紅い雪の謎は明らかになってはおらぬ。拙僧はそれを解き明かせるほど頭が良いわけではないが、それでも一つ、気付いたことがあるのだ。ぬしらの心の憂いを晴らすために、話しておきたいと思う」  得意や自信の色は見せず、あくまで謙遜の姿勢を崩さない蓮妙の物腰。それがかえって、不安に濡れる人々の心を凪がせるのであった。  さて――と一息継いで、蓮妙は語り始めた。 「与作殿の話は闇雲に人々を不安に陥らせ、権蔵殿の話は、なるほど筋が通っておるように感じられるかも知れぬが、今年に限って雪が紅く染まったことについては故を述べておられぬ。権蔵殿は、雪が白でなければならぬ故などどこにもないと申されたが、それは今年に限って雪が紅く染まらなければならなかったことへの説明にはならぬ。そして……ここに拙僧は一つ、ある意見を握っている。事の次第は、皆が思っているほど難しくはない。古今の書を探って迷信を振りかざす必要も、禅問答のような言葉を紡いで人を煙に巻く必要もないのだ。たった一つ、このことだけに気付いておれば良い」  妙蓮はそこで言葉を切り、懐から一足の草鞋を出して高々と掲げた。鼻緒の切れた、古臭いボロ草鞋。それがいったい何の証になるのかと、みな不審顔で見つめている。  妙蓮は莞爾と微笑むと、草鞋をゆさゆさと振ってみせた。と、草鞋から何か微小な塊が、はらはらと床に零れおちる。聴衆の一人が、手を伸ばして床に指を這わせ、目に近づけてしげしげと眺めた。指を擦り合わせたり匂いを嗅いでみたり、ひとしきり探り回った後に、こりゃァ土のようだの――と呟く。頷く妙蓮。 「それは羽州、吾妻山の絶頂の土だ。拙僧は先年、吾妻山に登る用事があってな。頂から眺めて驚いた。山上半里ばかりが、みな赤土なのだ。そして雨が降ると小さな崩れを起こして方々に水が溜まり、どろりとした紅い沼池ができあがる。土が付いた指を火に翳してみよ。冬に降った紅雪と、同じ色をしているはずだ」  そう言われて、指に赤土を付けた男が腕を伸ばすと、聴衆からどよめきが起こった。火明かりに現れた男の指、その先についているのは、紛れなく紅雪と同じ色をした土である。 「なるほど……確かに同じ色じゃ。じゃが……吾妻山が赤土を被っていることと、紅雪が降ったことには、何の関わりがあるのじゃ」  誰かが尤もな問いを口にした。だが蓮妙は澄ました顔で、 「そうそう、それよな。先年拙僧が吾妻山に登った時、世話してくれた導夫がおる。その男の弁によるとな、吾妻山の頂に点々とある紅い池……それに神田や竜池といった名号を付けておるらしい。そうして特に大きな池を指して、こう教えてくれた。あそこの竜池に、それは見事な龍神様がいらっしゃるという話でな……百年に一度か千年に一度、天下ってこの池に現れ、数多の奇瑞を見せるという――とな」  龍神様じゃとな――と、そんな素っ頓狂な声をあげたのは、一人や二人ではなかった。蓮妙は大袈裟に頷いて、 「そういうことよ。吾妻山の頂に百年に一度……あるいは千年に一度、龍神様が舞い降りる。龍神様は紅い水を湛えた沼に浸り、気まぐれに天空を泳ぐ。その折、山二巻きもある蛇身を振るわせて、百里の外に紅い雨を降らせるのじゃ。建武九年にあったとかいう、紅い雨もこれで合点がいく。もしその雨、空中に凝り固まって雪となるならば、それは皆一様に紅色でなくてはならぬ」 「龍神様の……仕業じゃったのか……」  あちこちから響く、力ない呟きと溜め息。蓮妙も喋り草臥れたのか、鼻から熱い息をふうと吐き出して、その場にどっかり腰を下ろした。本堂の中は再び沈黙に包まれる。だが、今までのような憂いと不安に満ちたものではなかった。蓮妙と、傍らの灯を眺める人々の瞳には、音なく踊る灯のそれとは確かに違う、活き活きとした光があった。 「一つだけ、不安に思うことがあるのだが」  長白髪の老翁が手をあげた。蓮妙は頷く。 「吾妻山の赤土が紅雪の正体……なるほど、それならば雪が紅い色をしているのも納得だ。龍神様が訪れるのが百年か千年に一度ならば、今年のみ紅雪が降ったのにも理由が付く。――だが、まだ我らの不安は拭えぬ。紅い雪が降ったことで、我らに災い在りや無しや……そのことにはまだ、はっきりと答えはもらっておらぬではないか」  まず安心されよ――と、蓮妙はどこまでも穏やかな表情で答えた。それだけで人々の心に残っていた僅かな不安さえ、春日を浴びた残雪の如く綺麗に消えてなくなってしまった。 「これも吾妻山の導夫が教えてくれたことだ。龍神様は、一季ごとに棲む山を変えるらしい。そして龍神様が訪れるべき山は、海の底に聳える須弥山はじめ、唐土天竺の山を数えて、一千を下らぬそうじゃ。龍神様はそれら山の一つ一つを巡るのが役割で、それを龍回りと呼ぶ。訪れる先々で災いを起こしてでもいない限り、我らの村にだけ災いを振り撒く謂われはない。龍神様は、ただ立ち寄っただけ。災いと言えば、紅雪が降ったために我らが杞憂に魘され、流れ者の懐を膨らませてしまったくらいのことじゃ。その咎まで龍神様に押しつけるのは、さすがに不遜じゃからの」  さようか――と、老翁はほっとした顔で頷く。それから急に顔をぱっと朗らかせて、 「それにしても、紅雪の正体が、単なる山の赤土だったとはな。偉そうに怪異などと言っても、蓋を開ければこんなものか。とにかく……妙蓮様のお陰で、もはや恐れる必要はなさそうじゃ。さあ、言祝げ! 紅い雪などというものは忘れて、大らかに春を迎えようぞ。憂いはもはや、春風に乗って、とうの彼方へ消え去った!」  陰立ち込めているはずの本堂が、真昼間のように輝いた気がした。人々がどっと歓声をあげて立ち上がり、喜びに足を踏み鳴らしたのである。誰の顔からも、冬の間淀んでやまなかった不安の色がすっかり失せて、やがて来る日の出と同じ、ぱっと鮮やかな、そして力強い魂の躍動に満ち満ちているのであった。  人々は口々に妙蓮を讃えた。妙蓮は決して驕らず静かに笑んだままであった。けれども、その唇の端を、どれほど隠し通そうとしても隠しきれぬ満足の色が、ぐいぐい押し上げるせいで、いつにもまして活き活きした微笑を浮かべているのであった。  宴が再び華開いた感さえあった。人々は陽気にはしゃぎ、今日この夜を心より祝した。  誰もが浮かれている。言祝いでいる。  だからであろうか。一人の子どもが、頻りに母親の手を引いて言っていることに、誰も耳を貸していなかった。とうの母親でさえも。 「おっかあ、おっかあ、おれ、一つだけ分からねえことがある。あかい雪はりゅうのせいだど、みんな言うけどよゥ、りゅうなんて、ほんとうにいるのか。おっかは、あかい雪が、あかい土のせいだどわかれば、それで、まんぞくなのか。おれには、それがわからねえぞ」  少年の声は、村の謡をうたう人々の声に、すっかり掻き消されてしまった。少年は諦め、母の手を離して一人、本堂を出る。見上げれば、澄み切った夜闇満天の星。己の中にいつまでも蟠る疑問を、その闇に溶かし流してしまおうと、少年は深々と息を吐いた。  宴は終わる気配を見せぬ。夜は、ますます更けてゆく。 (了)
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