act.2 薫風(くんぷう)

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 そしてその後、俺は二階の子供部屋に昇った。昨日の凪紗の言葉が気になったのだ。  俺に何の相談だろうか。  凪紗は広い学習室の自分の机に向かって勉強をしていた。最近は塾から帰って食事や風呂を済ませたらあとはずっと勉強をしているという。  家の手伝いが出来なくなってると凪紗はすまながってるが、美音はそんな事は気にしないんだよと伝えていたという。  凪紗は凪紗の夢の為に頑張れる事が、うちの家族はみんな嬉しいんだからと。  ただ凪紗のその夢がなんなのか、今は家族の誰も知らないそうだが。 「凪紗」  集中してる所悪いが、ちょっと兄ちゃんと話をしよう。 「あ、拓兄。帰ってたんだ、お帰り」 「ああ」  その傍らに座る。 「で凪紗、相談てなんだ?」 「うん…あのね」  参考書を閉じた凪紗がしっかり俺に向き合う。 「私、法律を勉強したいんだ」  俺の妹は、俺が予想もしていなかった言葉を口にした。 「法律って?」 「最終的にはお父ちゃんと同じ司法の資格を目指したい。犯罪を犯した人に裁判を受けさせる資格を持った検事やお父ちゃんのような専門分野を持った弁護士に」  マジか。  けど凪紗は冗談を言ってるようには見えない、真っ直ぐに俺の眼を見て言っている。 「いつからそう思った?」  俺にとってこの妹は、いつもいつもミシンをいじってるところや楽しそうにばあちゃんと裁縫をしている所しか覚えがない。夢は服飾デザイナーだとずっと言っていた。  デザイナーになって、美音と同じくらい大好きなピアニストのカナ姉のステージ衣装を作るのが夢と。  確かに最近はとてもよく勉強をしていて、学習塾も自分から行くと言ったのは聞いたけど。 「中学生になった頃ね、みぃ姉から初めてアメリカ留学のきっかけになったあの事件の事を聞かせてもらったの」  え? 「あの時はもうすぐ家族がまた一緒に暮らせると思っていたのに、大好きなお姉ちゃんがいきなりアメリカに行く事になってしまった。私の中ではあの出来事がずっと引っ掛かったままだったの」  まだ幼い凪紗が、美音の留学にかなりのショックを受けていたことは知っていた。 「みぃ姉は留学する前に会いに来てくれて、笑顔で『私は大丈夫だから凪紗は真也とひかりをお願いね』って。その時の笑顔が何故か悲しくて、私はやっぱり泣くことしか出来なかった。みぃ姉が拓兄と離れる事がどれだけ悲しい事か、妹の私はとても良く知っていたもの」  そうだったな。  凪紗は俺が自覚するずっと前から、俺と美音は恋人なんだと言い張っていた。 「私の大事な家族がどうしてこんな目に遭うのか。今ならその時の気持ちは、理不尽な出来事に対しての怒りというものだとわかるようになったわ。だから自分が中学生になった時に、思い切ってみぃ姉にその事を聞いたの」 「……」 「みぃ姉は軽くしか教えてくれなかったから、その後はお父ちゃんに直接聞いた。お父ちゃんは最初教えるのをすごく渋っていたけど、どうしても教えてとしつこく食い下がったらちゃんと私にも分かりやすい様に教えてくれたわ」  最初その話の全てを知った時は、かなりのショックだったと凪紗は言う。  だが、泣かなかった。  そして美音の才能を妬んだ上級生の犯罪もさることながら、その根底にある物は美音の出生、あの実父という男の身勝手な思いが引き起こした事も知った。 「何があの時、私達からみぃ姉を奪ったのか。私は時間を掛けて知っていったんだよ」  美音は凪紗が幼い頃から、いつも優しくてニコニコしていて穏やかなお姉ちゃんだった。  あの頃はまだ話すことは出来なかったけれど、美音は気がつくといつもそこに居て、自分や真也をとても可愛がってくれていた。  そのお姉ちゃんが、そんな辛い思いを沢山してアメリカに行っていたなんて。  家族が大好きなお姉ちゃんはきっと寂しくて悲しくて、辛い日々だったに違いなかったと。   「みぃ姉はね、それでもアメリカでとても良い勉強が出来たから良いのよって言っていた。その留学のお陰でアレックスと拓兄も再会出来たんだって。みぃ姉はいつだって誰も恨んだりしない、それはとても素敵な事だと思うけど私にはそう考えるのは無理」 「……」 「私は大事な家族にそんな思いをさせた学校の上級生も、実の父親という人も絶対に許したくない。上手く言えないけど、こんな想いを他の誰にもさせたくないと思ったんだ」  凪紗… 「だから私は法律を勉強したい。警察官も考えたけど、せっかくそういう人を捕まえても罪に問えなきゃ何にもならない。お父ちゃんのようにか弱い子供たちを守る為の弁護士も立派だと思う、けど私は出来れば検事を目指したい。犯罪の被害者に代わってそれを裁判で告発する側の資格を持った人に」  知らなかった。俺の妹は俺の知らぬ間に色々な事を知って、学んで、自分で考えて成長していたんだ。 「父ちゃんには相談したのか?」 「まだだよ、話したのは拓兄が初めて。話したら反対されると思う。検事になるのは最短でも高卒後8年もかかる厳しい資格だから」  そうだろうな、弁護士も検事も法曹になるのはすごく大変だと聞いている。自分が苦労した事を娘にさせたいと思うような親父じゃない。 「だから実績を作りたくて今成績を上げている所、目標は常に五教科で学年の5位以内。高校はお父ちゃんと同じ北央高校普通科の進学コースを目指してる。学校の先生に相談しながら色々頑張ってる」  ちゃんと具体的だ、それで学習塾まで行くようになったのか。 「自分がやりたい事だからお父ちゃん達になるべく負担を掛けたくないの。頑張って国公立を目指して拓兄みたいに奨学金を取りたいと思ってる。私は拓兄やみぃ姉みたいにあんまり頭が良くないから正直大変なんだけど、今は頑張りたい」  あの小学生の頃に壊滅的な算数の成績を取ってた凪紗が。それもこれも美音のあの事件がきっかけなんだな。 「拓兄、私は親に棄てられた子供だったけど、引き取ってくれたお父ちゃん達のお陰でこんなに幸せに成長したよ。だから胸を張って言える、私はお父ちゃんとお母ちゃんの強くて優しい心を受け継いだ出雲の娘よ。そのお父ちゃんの揺るがない法曹としての心も追って行きたいと思ったんだ」  そして凪紗はちょっと照れくさそうに笑った。 「まぁ、学力が追いつけばの話だけど。だから拓兄にしか言ってない♪」 「凪紗、あのなぁ」  保険かけてどーする、全くもう。結局、凪紗は凪紗だ。相変わらずちゃっかりしてるわ。 「で、今は成績の方はどうなんだ?」 「塾に行くようになってやっと勉強の仕方が分かって来たから大分上がってるよ。前は学年でど真ん中位だったけど、今は何とか総合で20番以内」  まだまだ微妙か、けど確かに相当頑張って上がって来ている。 「デザイナーになるっていう夢は本当に良いのか?」 「お裁縫は趣味でも続けられるもの、カナ姉のドレスを作る夢はまだちゃんと持ってるわ。でも今はこの時にしか出来ない勉強を頑張ってみたい」  そう言って俺を真っ直ぐに見る凪紗だ、その眼に迷いは無いな。 「分かった、俺は応援する。やるだけやってみろ」 「ありがとう拓兄!」  家族の誰にも似てないと言われる凪紗だけど、その真っ直ぐな眼差しはちゃんとうちの父ちゃんにそっくりだったよ。
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