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「いつでもよかったのに、わざわざありがとう」  歌那子はお店の帳簿をつけに、もう閑古鳥に来ていた。 「返すのが遅くなってしまってごめんなさい。それとこれは母からです」  近所の洋菓子屋さんの限定販売品、マスカットボンボン。  洋酒に漬け込んだマスカットの甘さと濃厚なチョコの苦味が絶妙の逸品で、すぐに売り切れてしまう人気の銘菓だ。  歌那子は嬉しそうに笑った。 「甘い物大好きなの、ありがとう」 「よかった」  そうこうしているうちに、近所の店に買い出しに行っていた大将が帰ってきた。 「お、七海ちゃんだったな、いらっしゃい」  ニカッと歯をみせて笑い七海に挨拶すると、カウンターの中にいるつゆきに買ってきた包みを渡してふたたび慌ただしく出て行った。 「今日は寄り合いがあって買い出しに行けなかったらしいのよ」 「忙しいんですね」 「兄ひとりじゃとても回転しないわよ、つゆきくんが有能で助かるわ」  つゆきはこの前と同じく、カウンターの中で音もなく淡々と雑用をこなしている。  手元をのぞくとすり鉢でごまと豆腐をすり混ぜながら、火にかけた鍋の煮え具合を気にしている。 「何作ってるの?」  七海の質問に 「白和え」  と、またちゃんと答えてくれる。  出来上がった白和えを盆に並べた小鉢に盛り付け冷蔵庫にしまうと、今度はさっき大将から受け取った包みを広げる。  中身は大量のつややかな茄子だった。 「それはどうするの?」    つゆきは一瞬考えたあと、ふと顔を上げた。 「なにがいい?」  不意打ちだった。  つゆきの方からなにか聞いてくるなんてはじめてだったから、七海は不覚にもドキッとしてしまった。 「え、っと、揚げ煮かな」  頷いてつゆきは茄子を洗って切れ目を入れ始めた。  縦に二つに切ってから斜めの格子状に浅い切れ込みを入れてボールの水に放ってゆく。  きれいな指。  黙々と作業をするつゆきの横顔は相変わらず無表情だったけど、今日の七海にはどこか楽しげに見えた。 「お、揚げ煮にしたのか」  しばらくして帰ってきた大将が前掛けを掛けながらカウンターに入ってきた。 「七海ちゃんのリクエストなのよ」  カウンターを拭きながら歌那子が言った。 「そうか、じゃあ晩飯食っていきなよ」  七海はびっくりして首を振った。 「そんなつもりじゃ」 「遠慮することないんだよ、賄いみたいなもんだし」 「そうよ、お腹空いてるでしょ。つゆきくんもごはんまだだし」  歌那子ににこにこしながら勧められて断ることができるはずもなく、ほどなく調った閑古鳥の晩餐の席に七海もお邪魔することになった。  太刀魚の塩焼きと春菊の白和え、茄子の揚げ煮には素揚げしたシシトウとおろし大根を添え、炊き立てのご飯とわかめのおみそ汁。 「おいしそう」  お腹の空いていた七海は思わず歓声を上げてしまった。 「いただきます」  つゆきはきちんと手を合わせて食べ始めた。  ちゃんとした家で厳しく躾けられて育ったんだろうな。  その様子に七海は思わず椅子の上で姿勢を正した。 「こいつ、愛想は悪いけど育ちはいいからな」  七海の視線に気付いたのか大将が言った。 「そういえばどうしてこのお店で働くようになったんですか?」  なにげない問いに歌那子と大将は顔を見合わせた。 「歌那子が公園で拾ってきたんだっけな」 「公園で?」  犬みたいに? 「そう、ちょうど今頃の季節よね」 「返して来いって言っても聞かないから、結局しばらく家で面倒みることになったんだったけ」 「そのうちお家の方が迎えにみえて…」 「よかったじゃねえか、ちゃんと戻るところがわかってよ」  それって本当に迷い犬の話じゃなく?  呆れる七海に 「まあ、小さい頃から犬だの猫だのよく拾ってきてはお袋に怒られてたからなあ、歌那子は」  こともなげに大将は笑った。 「一件落着かと思ってたら、次の日お店に舞い戻ってきて働かせてくださいって」  歌那子が言った。 「うちなんか時給安いのに」 「うちなんかとはなんだ、うちなんかとは」 「人使いだって荒いのに」  歌那子の物言いは遠慮がない。  ぐっと詰まった大将に苦笑しながら、七海は白和えを口に運んだ。  滑らかな豆腐の舌触りと濃厚なゴマの風味。  甘辛く味付けされたニンジンとこんにゃく、全体を春菊の香りと歯ごたえがさわやかにまとめ上げていて上品な味に仕上がっている。 「美味しい」 「うん、まあまあだな」  つゆきは顔を上げた。 「上手になったわね、つゆきくん」  にっこり笑って歌那子。 「ご馳走さまでした」  最後もやっぱりちゃんと手を合わせて食事を終えると、つゆきは自分の食器を重ねて流しに運んで行った。  あ。  もしかして、照れてる?  そそくさとカウンターの中へ戻ってしまったつゆきの顔が心なしか赤い。  なるほど、そういうことか。  何も知らない歌那子は、大将と常連さんの噂話で盛り上がっている。  七海はいつになく動揺しているつゆきとそんな歌那子を見比べながら、ごちそうさまと呟いた。
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