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5
「おう! 離せよ」
男は怒号を上げ、空いている方の腕を振り回して抵抗した。
「こいつはやめとけ」
そういって、男を突き放す。
側にいた仲間の男が、
「カンケーねーだろ」
怒鳴りながら、拳を振り上げた。
「きゃっ」
「下がってろ」
トンと肩を押され、はずみでよろめいた七海は街路脇の植え込みに突っ込みかけた。
「大丈夫?」
排気ガスにまみれ、煙草の吸い殻や空き缶があちこちに刺さっている茶ばんだアゼリアの茂みに手をつきかけた七海をすんでのところで引き戻してくれたのは、さっきの女の人だった。
「ここ、危ないから離れてましょ」
「でも」
「どわっ!」
振り返ると、男の一人がいままさに七海が立っていた場所に倒れ込むところだった。
「てめえ」
入れ替わるように二人目の男がつゆきの胸ぐらをつかんだ。
興奮に血走った眼、怒りに膨張した顔。
男が拳を握るより速く、つゆきの体が相手の懐へ飛び込んだ。
「!?」
不意をつかれた男がとっさに退こうとするのを爪先を踏みつけて制止し、空いた顎めがけて頭突きをいれる。
「ぎゃ」
顎を押さえて一瞬動きを止めた男は、唸り声を上げながら突進していった。
その単純で直線的な攻撃を読んでいたのか、つゆきはひらりと身軽くとびのいてすれ違いざま相手の膝を蹴り払った。
どちゃっと無様に地面へ転がった仲間のピンチに、
「この野郎!」
残りの一人の男がつゆきに殴りかかった。シュっと空を切った拳を左手で受け止め、引く。
勢いを制しきれず前につんのめった男の無防備な腹を膝で蹴り上げ、エビのように体を折り曲げた男の髪をつかんで顔を上げさせた。
恐怖に引きつった男の顔めがけて拳をたたき込む。
容赦なく。
「ひぃっ」
「つゆきくん、もういいわ」
男の喉からかすれた悲鳴が漏れ、さらに腕を振り上げていたつゆきを彼女は穏やかに制止した。
振り返ったつゆきに
「いいの、こちらのお嬢さんが怖がってるじゃない」
たしかに七海は震えていた。
寒くもないのに鳥肌が立ち、いやな汗が全身の毛穴からいっせいに滲み出てくる。
目の前で人が殴られるのをみるのは初めてだった。
血と涙に歪んだ男の顔から眼がはなせない。
吐き気がして、七海は思わず口許をおさえてしゃがみこんでしまった。
「つゆきくん」
彼女がもう一度呼ぶと、つゆきは手をはなした。
解放された男は血の噴き出した鼻を押さえてよろよろと立ち上がり、駐めてあった車の方へ歩きだした。
「大丈夫? ケガしてない?」
そう言って背中をさすってくれる彼女の手は優しくて温かくて、ほっとするのと同時に涙が溢れてきた。
もう安全だとわかっているのに、震えが止まらない。
「怖かったのね、もう大丈夫。兄がこの先で料理屋をしているの。よかったら休んでから帰るといいわ」
「すみません」
「つゆきくん、荷物持ってあげて」
泥に汚れた制服のスカートを払ってくれながら、彼女はふとつゆきを振り返った。
「あら、同じ制服。お友達?」
「…同級生」
「そうなの、偶然ね」
「あの、大館七海です、本当にありがとうございました」
男たちが乗り込んだワゴン車が走り去ってゆく。
声を掛けてきた時の人なつこい様子からは想像もつかないさっきの豹変ぶりに今更ながら冷たいものが背筋を駆け抜ける。
あのまま連れて行かれていたらどうなっていたんだろう。
「私は吉野歌奈子。ちょうど駅でつゆきくんと会って一緒に兄の店へ行く所だったの」
「つゆきと?」
「ええ、兄の店で働いてくれてるの。つゆきくんが一緒でよかったわ、私一人だったら反対に連れていかれちゃったかもね」
無邪気な顔でとんでもないコトをいう歌奈子につゆきの顔が青ざめた。
「歌奈子」
「冗談よ、そんな時はすぐ警察に電話します」
咎めるようなつゆきの声音に、歌奈子は小さく舌を出して七海にめくばせしてきた。
お兄さんの店はそこから路地に入って十メートルほど進んだ場所にあった。
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