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「創作料理 閑古鳥」
入り口に掲げられた白木の看板にはくっきりとした墨文字でそう書いてある。
「客商売なのに縁起でもない屋号でしょ」
七海の視線に気づいた歌奈子が言った。
「止めた方がいいって言ったんだけどね」
つゆきが引き戸を引いて中へ通してくれた。
「よう、遅かったじゃねえか。なんだ、カンコも一緒か」
大きな体を窮屈そうに振り向けて、カウンターの中から男が声をかけてきた。
歌奈子に続いて入ってきた七海を見て、
「そちらさんは?」
「つゆきくんのお友達ですって。その先で変な男たちに絡まれてたの、ちょっと休ませてあげて」
「へえ、つゆきにこんな可愛い友達がいたなんてな」
大将は意外そうに言った。
「この辺も物騒だからな。今日は予約も少ないし、仕込みが終わったらつゆきに送らせるから適当に座って待ってなよ」
「はい、ありがとうございます」
開店直後らしく、お客さんはまだ二組しかいなかった。
どちらも常連なのかカウンター席で大将と親しげに野球の話かなにかをしている。
「落ち着いた?」
歌奈子が熱いほうじ茶の入った湯飲みをテーブル席に置いてくれた。
ごつごつとした肌触りの無骨な湯飲みを両手で包み込むと、じんわりと熱がしみこんで来るみたいで、七海は思わずほっと溜息をついた。
「こわかった」
髪をかき上げた指はまだ震えてる。
「ほんとうにね」
歌奈子は七海の向かいの席に腰をおろして言ってくれた。
「お家の方が心配するといけないから連絡した方がいいんじゃない? 迎えに来てもらう? うちは何時までいてもらっても大丈夫なのよ」
七海は頷いた。
「駅まで母に迎えにきてもらいます」
「そうした方がいいわね」
いつのまにか着替えを済ませたつゆきがカウンターの中に立っていた。
チャコールグレーのコックコートと黒いエプロン。
細く水を流しながら下ごしらえの野菜を洗っている。
無表情は相変わらずだけど、つゆきの仕事ぶりは丁寧で手際よかった。
皮を剥いて乱切りにしたニンジンを鍋に放り込んで火にかけ、振り塩をした魚をグリルに入れて扉を閉める。
茹で上がった青菜は冷水に放ってからザルに上げて切り揃え、新しく来た客にはおしぼりとお通しを出してビールの栓を抜く。
洗い場に積み上げてある調理器具を洗って手早く拭き上げてしまったら、今度は盆に並んだ小鉢に酢の物を盛りつけてゆく。
やがて十五席ほどのカウンターが全部埋まって、料理が一通り行き渡ると大将はようやくつゆきに声を掛けた。
「今日はカンコがしばらく店にいてくれるから、今のうちにあの娘を送ってきてやんな」
七海はあわてて立ち上がった。
「すみません、お仕事中なのに。今日は本当にありがとうございました」
「気をつけて帰ってね。また遊びにいらっしゃい、お酒は出せないけど料理も結構いけるのよ」
「結構てのはなんだ、結構てのは。これでもれっきとしたプロの料理人だぞ、オレは」
歌奈子の言葉にムッとした大将の抗議に
「プロったってピンキリだからねえ」
酔客が混ぜっ返して、どっと店内が湧いた。
賑わう店を背にのれんをくぐって一歩外へ出ると、夜気は思いのほか冷えていた。
思わず首をすくめた七海を追って歌奈子が店から走り出てきた。
「これ、よかったら着て行ってね。風邪引いちゃうわ」
「でも…」
淡いピンク色をした可愛いトレンチコートだった。
「いいのよ、さ、つゆきくんにはこっち」
そう言って背伸びしながら、歌奈子はつゆきの首にふかふかした空色のマフラーを巻いてあげた。
「寒いわねぇ」
澄み渡った星空を見上げて歌奈子が言った。
「あったかいよ」
マフラーに顔を埋めてつゆきが答える。
大将が中から歌奈子を呼んだ。
「それじゃ、気を付けてね」
歌奈子は笑顔を残して慌ただしく店の中へ戻って行った。
残された二人はなんとなく歩き出した。
「あの、今日はありがと」
黙っているのも気詰まりな気がして、七海は思い切って話しかけた。
「それと、お昼休みはごめんなさい。盗み聞きするつもりじゃなかったんだけど、出て行くタイミングがつかめなくて」
ずっと心に引っかかっていた事もついでに謝った。
つゆきは黙っていた。
もしかして怒ってる?
そっと見上げた横顔からは表情が読めない。
七海は窮屈な沈黙からもがき出るべく、話題を探した。
「歌奈子さんて親切だね」
その時、不意に肘をつかまれ引き寄せられた。
「きゃ!?」
驚いて身を竦めた七海のすぐ横を酔っぱらったおじさん達が千鳥足で通りすぎた。
「お、可愛いね~」
「おっちゃんらとデートせえへんか~」
お酒くさい赤ら顔を寄せて、ニヤニヤしながら無遠慮に七海を眺め下ろす。
「やだ」
思わず顔をしかめた七海の手首をつかんでつゆきはズカズカと大股で歩き出した。
「待ってよ」
転びそうになりながら七海は必死でついて行った。
「あんた、油断しすぎ」
駅の改札まできて、ようやくつゆきは手を離してくれた。
責めるでも咎めるでもない平坦な口調で言ったつゆきのその言葉が、忠告なのだと気づいたのはいつもよりかなり遅い帰りの電車に乗ってからだった。
もしかして、心配してくれたのかな。
七海が改札を通ると、振り返りもせずさっさと戻って行った背中を思い出しながら、七海はなんだかちょっとだけ嬉しかった。
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