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悲劇の魔女、フィーネ 2
女性が鍵盤の上に両手を置くと同時に店内の照明の明かりが落とされた。そして代わりに女性にスポットライトが当たる。店の客は全員彼女にくぎ付けになっている。
そして彼女は美しい曲を弾き始めた。
何所か物悲しく…そして心に切なく響くメロディーを…。
「…」
俺は料理を選ぶのも忘れ、ピアノを弾く彼女を瞬きする事も無く見つめていた。
目を閉じ、その細腕で弾いているのは悲しい鎮魂歌だった。お客の中には感極まってハンカチで目を押さえながら曲を聞いている女性客の姿もある。
まさに、今この空間は彼女の為だけにあると言っても過言では無かった。
やがて、彼女は曲を弾き終え…椅子から立ち上がると頭を下げた。
すると…。
パチパチパチパチ…。
お客の1人が拍手をした。すると、途端に他の客達の間でも拍手が聞こえ始め…店内はいつしか拍手の渦に包まれていた―。
彼女はやがて、顔を上げると優雅な動作でその場を去り…店の奥へと消えて行き、店の照明は元の明るさに戻った。
彼女が弾いた曲は1曲のみだったが、まるで夢のような時間だった。出来ればこのまま時を止めて、彼女の姿を飽きることなく見つめていたいと願ってしまう程に。
その時―。
「お客様」
不意に声を掛けられ、我に返った。見ると、すぐ傍にウェイターが立っていた。
「は、はい?」
「メニューはお決まりになりましたか?」
「あ、すみません。すぐに選びます」
慌ててメニューを広げ、素早く目を通す。
「サーロインステーキセットでお願いします」
「アルコールは如何致しましょうか?」
「では白ワインをお願いします」
「かしこまりました。お待ち下さい」
そしてウェイターはお辞儀をすると去って行った。1人になると先程ピアノを弾いていた女性の事が脳裏に蘇ってくる。
彼女はこのレストランの専属ピアニストなのだろうか…?名前は何と言うのだろう…?
その時―。
「失礼致します」
先程と同じウェイターがワイングラスとワインを手に戻って来た。
ウェイターはグラスをテーブルに置くと、慣れた手つきで注いでいく。グラスに透明のワインが満たされると、ウェイターは頭を下げた。
「ごゆっくりおくつろぎ下さい」
そして背を向けて立ち去ろうとするところを呼び止めた。
「あ、ちょっと待って下さい」
「はい、何でございましょうか?」
こちらを振り向くウェイターに先程の女性の事を尋ねてみる事にした。
「すみません。先程この店でピアノを弾いていた女性についてお伺いしたいのですが、彼女はここの専属ピアニストなのですか?」
「いいえ、違います。話によると色々な店で演奏しているようですが?」
「名前…彼女の名前を教えて下さい」
しかし、ウェイターは困った顔をした。
「申し訳ございませんが…勝手に個人情報を漏らすわけにはいかないので」
そんな…。
だが、彼の言う事も尤もだ。なら…。
「実は、私はフリーランスのルポライターなのです。今日はこの町のお洒落な店の特集をまとめて記事にしたいと思って訪れたのです。まさかこの店で美しいピアノ演奏を聴けるとは思わず…是非、取材したくてお話をお聞きしたかったのです」
我ながら口から出まかせを言うのがうまい。
「え…?その話は本当ですか?」
すると途端にウェイターの目の色が変わる。やはり食いついて来たか。
「ええ、是非特番を組みたいと思って」
笑顔で返事をした。
「そう言う事でしたら…お待ち頂けますか?実は彼女はいつもこの店で曲を弾いた後は食事をしてから帰宅するのですよ。今別室で待機しておりますので本人に話をしてきます。お待ち下さい」
ウェイターは会釈すると、急ぎ足で店の奥へと消えて行った。
さて…彼女はここへ来てくれるだろうか…。もう一度、彼女を見たい。そして声を聞いてみたい…。
俺は期待に胸を膨らませ、彼女が来てくれる事を祈りながらワインを口にした。
しかし…。
「え?断られた?」
俺の期待は外れてしまった。
「ええ…申し訳ございません。彼女曰く、迷惑だと言う事でした…。注目されるのが嫌だと申しておりました」
ウェイターはすまなそうに頭を下げた。
「そうですか…。ところで彼女は毎晩この店で演奏するのですか?」
「ええ、そうです。毎晩ここで同じ時間に1曲だけ弾き、別の店へ向かっているようです」
「…分りました。ありがとうございます」
「ご希望に添えず申し訳ございません」
そして再び頭を下げるとウェイターはテーブルを離れて行った。
すると入れ替わる様に、別のウェイターが料理を運んできた。
「お待たせ致しました。サーロインステーキでございます」
そして目の間に料理を置く。
焼けた鉄板プレートの上では極厚のステーキがジュウジュウと焼けてソースと肉汁が絡んで食欲をそそられる。
「ありがとう」
「ごゆっくりどうぞ」
ウェイターが席を離れると、早速ステーキをカットして口に入れる。
「…美味い」
程よく焼けた肉厚ステーキにガーリックの香るソースは抜群の相性だった。それに出された白ワインも美味しい。
そして何より、美しいピアノ演奏者…。
決めた。
彼女と話が出来るようになるまで…毎晩この店に通おうと。
そしてステーキを口にしながらふと、思った。
彼女はまるでこの地に伝わる伝説の魔女のような女性だ―と。
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