エピソード 0

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 その事務所は大岡川の近くにあった。  一階が喫茶店の二階。三分の一が住居スペース、残りが事務所として使われている。喫茶店は昔ながらの喫茶店で、いまだに喫煙スペースがあり喫煙者には重宝されていた。オーナーはこの小さなコンクリートの建物の持ち主である。  喫茶店の横には小さな階段があり、そこが唯一二階の事務所に繋がっている。暗くて狭い。古さはあるが清潔であることだけは救いだ。  昔ながらのガラスのはまった重い鉄のドアをノックする。ガラスには〈青塚(あおつか)探偵事務所〉というテプラが貼ってあった。表札くらいなんとかならんのか。何度言っても変更する気はないらしい。香川(かがわ)はため息を一つつくと、中から「どうぞー」と間延びした声が聞こえた。 「──連絡を入れたはずだが?」香川は開口一番そう言った。 「あー、そうだったか?」そう言って青塚はスマホを確認した。「ホントだ。五回も着信あったわ」  香川は大きなため息をついた。「そんなことで依頼を逃したらどうする? 家賃だって払えないだろう?」 「それは大丈夫。香川のだけ着信音を変えてるから」  それはありがたいのか、ありがたくないのか。香川は気を取り直すと、眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げた。 「寝てたのか? もしかして忙しいのか?」 「まあ、それなり?」青塚はわざと歯をみせて愛想笑いを返した。そして椅子から立ち上がり、大きく伸びをした。 「ビールか水しかねえけど?」 「仕事中にビールが飲めるか」香川の答えに青塚はふーんと鼻を鳴らし、冷蔵庫からペットボトルのミネラルウォーターを取り出し放った。そしてビールを取り出そうとして手を止めた。 「もしかして何か用事だったか?」 「用事がなきゃ仕事中にわざわざ来ないだろ」それはそうか。青塚はミネラルウォーターを掴んだ。  青塚は自分のデスクに戻って、適当に書類をまとめた。そして居心地のいい椅子に座り直した。依頼ならソファを勧めるところだが、用事ならば片手間に聞けばいい。しかも相手が立っていたほうが、小言が少なくて済む。 「で、なんの用事よ? つかヒマなのか?」 「暇なわけないだろ」 「だよなあ」香川は繁華街を管轄とする加賀署の刑事部知能犯係の長である。知能犯係とは詐欺や横領などを担当している。  長く着られる仕立てのいいブリティッシュスーツを大切に着ていた。白いものが混じり始めてはいるが、自然とかきあげられたような膨らみのあるスッキリとした頭髪。細身で細い銀縁の眼鏡。神経質そうな知的な眼差しはどこかの教授と言われても納得できそうな風貌だ。長になってからは「デスク仕事が増えてつまらない」とぼやいていたが。キャリア組で現在は警部だったが、早いうちに警視正になってどこかの署長になるだろうと噂されていた。  対して青塚はアロハシャツに黒のパンツ。アロハシャツは真夏以外はそれなりに落ち着いた色合いになるが、冬以外はだいたいアロハシャツだ。黒のパンツはこだわりがあって、黒のジャケットを羽織ればスーツっぽく見えるから。それが理由だ。そんな格好が浮かないようなワイルドめの少し伸ばされた髪とそれなりに整えられた髭。かつては香川と一緒に働いていた男だった。 「で、ヒマでもないのに何の用事よ?」 「その──お願いがあってな」  お願い? 珍しい言い方だと思った。今まで聞いたことがあっただろうか?  香川は珍しく目を逸らし、言い淀んでいた。だが、腹を決めたようで顔をあげた。 「私の愛人の子どもを探して欲しい」 「──ごめん。なんて?」 「私の、愛人の、子ども」 「うわッ! 空耳じゃなかった!」  飲みかけたミネラルウォーターを盛大にこぼしたのは言うまでもない。
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