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エピソード1 おパンツの行方 4
結愛はあれからすぐに桃に連絡を入れた。
『手を貸して欲しい』
結愛のお願いを桃は快く引き受けてくれた。だが悲しいかな、社畜。残業終わりに家に来てくれと言われた。そして誰かと一緒に来るのか? と聞かれた。
結愛は「石山さんが一緒に来るかもしれませんが、桃さんの部屋に入れたくないから断ります」と答えた。
だが「石山くんなら絶対連れて来て」との返信があった。どうして石山さんなら絶対なのか。結愛は首を捻った。
「あー。桃さんのとこはよく行くからな」石山は道すがらなんの問題もないようにシレっと言った。
「独身のひとり暮らしの部屋なのに?」
「桃さんだぞ?」
どういう意味だろう。結愛は石山の答えの意味が分からなかった。
「猫撮ってこいって言われンだよ」
ああ。あの猫アレルギーの人か。だがその指示もおかしいのではないだろうか。
「それもおかしいと思う」
「だから桃さんだぞって何回言えば。ああ、行けば分かるわ」石山はそう意味深に答えた。
桃のマンションは吉野町にあるらしい。
「買い物するからちょっと歩くぞ」石山はそう結愛に言った。「こっちから買い物しながら歩いて行くって言ったら、横浜橋通商店街でキムチ買ってきてって」
キムチの意味も分からないが、買い物ってなんだ?
「買い物?」
「桃さんはいっつも蒔田の〈いなげや〉に行くからよお。横浜橋を通る時はだいたいキムチ買ってきてって頼まれるな。やっぱり韓国の人がやってる店の方が美味いって。隠し味が違うとかなんとか言ってたけど。俺も本場のほうが美味い気がするわ」
いや、そんなにキムチの情報はいらないのだが。どうして桃の家に行くのに買い物が必要なのか結愛には分からなかった。
桃のマンションは外観からして相当築年数が経ってるだろうなというマンションだった。もちろんオートロックではない。エレベーターはかろうじて付いていたので、それに乗って三階で降りる。
長い廊下にずらっと並んだ扉。しかも扉の塗装も剥げているところもチラホラ見かけた。
石山は迷うことなくまっすぐに桃の部屋に向かい、チャイムを鳴らすと返事も聞かずにすぐに開けた。女性の部屋なのにと驚いた結愛は石山を止めようとしたが、石山の動きは早かった。
「ちぃーっす」
「あー。適当に入って」
桃の部屋に入って結愛は驚いた。ほとんど物がないのだ。6畳もないワンルームにちょっとしたキッチン。フローリングの床に白い座卓。そこに座布団を敷いて桃が座ってパソコンと格闘していた。
「お邪魔します」
結愛は声をかけたが、桃はパソコンに集中していた。
そのうちに何かがこちらに向かって走ってきた。ルンバと猫だった。上には乗ってはいないが、まるで友達みたいにじゃれあいながらこちらに向かってきていた。
「どけ」
石山は買い物袋を投げ捨てるとスマホを取り出した。腰を落としスマホを向け、しまいには腹ばいになって撮っていた。激写カメラマンか?
ルンバが止まりそうになると仔猫は前足で小突いた。そして動き出す。それからまた進路妨害するということを繰り返していた。
石山は「こっち向いてー」「可愛いねえ」「いいね!いいね!」と声を上げていた。グラビア撮影ですか? そう突っ込みたかったけれど。
「アレクサー。〈ボサノバ ベスト〉かけて」
『〈ボサノバ ベスト〉を再生します』
「わっ! 喋った!」
「アレクサだからな」石山はすでに猫とルンバを下から煽るように撮っていた。
結愛は猫とルンバと戯れる石山、アレクサと話をする桃を奇妙な気持ちで眺めていた。
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