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事務所には結愛のキーボードを叩く音だけが響いていた。
いつもののんびりした午後。青塚は机の脚を上げて椅子にふんぞりかえって雑誌を読んでいる。昼食をガッツリ食べたせいかすっかり眠そうで、読んでるはずの雑誌を何度も顔の上に落としていた。過去何度も青塚には「15分くらいソファで横になって昼寝をするといいらしい」と結愛は進言していたが、青塚は毎回「15分で起きられるわけねえだろ」と言って結愛のいうことを聞こうとはしなかった。それもあって結愛はもう気にしないことにした。
そんないつもの午後のはずだったのに、事務所の扉がいきなりガンッと大きな音を立てて開いた。
「テメエ! どういうつもりだッ!」
カチコミか? と慌てて青塚は起き上がった。
「──なんだ、龍かよ。どうした?」
大きな怒号と共に飛び込んで来た龍に青塚はのんびりと言った。龍は青塚の机の前までズカズカと歩いて行くと、両手を机の上に叩きつけた。
「どうもこうもねえ! このガキが変なこと言いやがってこっちは迷惑してるんだっつーの!」
「変なこと?」
「コイツが俺の愛人だって!」龍は結愛をビシッと指差して怒鳴った。
「あ」
そうだ。忘れてた。
「その顔だと身に覚えがあるみてえだな?」龍は結愛をギッと睨んだ。
「えっと」
「なんだぁ、そんなこと言ったのか?」青塚は相変わらずのんびりと声を発した。
「──ごめんなさい。伝えるの忘れてた」結愛は龍に頭を下げた。
「あ? 伝える伝えねえの話じゃねえわ! なんでそんなこと言いやがったのかって聞いてンだよ!」
「お好み焼きが焦げるところだったから」
「はあ!?」
龍はいつものクールさからは考えられないような声をあげた。
「ごめんなさい」
「ごめんで済むなら警察はいらねえわ」
「でもコイツの親父は警察だぞ? あ、ごめん」青塚の妙なジョークは龍には全く通じなかったようだ。
「おいガキ! 言っていいことと悪いことがあるからな」
龍はまだめちゃくちゃ怒っていた。青塚は仕方なく龍に向き合った。
「確かに嘘をついた結愛は悪い。でもお前さんはなんでそんなに怒ってるんだ? 別にいいだろ、いま彼女いないんだし。愛人の一人や二人」
「は?」
「いや、言い過ぎました」
龍は青塚に凄んだ後、長いため息をついた。
「──面倒くせえんだよ」
「何が?」
「このガキの言ったことを次の日にはみんな知ってて。『彼女は作らないって言ってたのに愛人は別腹なのね』って……愛人にしてくれって通知が止まらねえの!」
「──モテる自慢?」結愛の口からふいにこぼれ落ちてしまった。
龍は無言で結愛の前までやってきて、いきなり両手をグーにして頭をグリグリやり始めた。
「いたたた!」
「少しは反省したか、ガキ! もしこんなこと香川さんの耳に入ってみろ。明日には俺は加賀署の留置所にいるわ」
なんで〈明日には加賀署の留置所にいる〉のか結愛には分からなかったが、青塚は「あー」と苦い顔をしていた。
「まあ、それはなくはないかもなあ」
「だろ? 青塚さんなら分かるだろ?」龍がそう言うと、青塚はうんうんと頷いた。
「香川の取調べは地獄だからなあ。結愛、もういっぺん謝っておけ」
青塚がそう言うと龍はグリグリしていた手を止めた。
「ごめんなさい」
「若えオンナが〈愛人〉なんて言葉を軽々しく口に出すんじゃねえわ!」
「──はい」そう言われてやっと結愛は項垂れた。結愛のことを心配してくれてることが分かったからだ。
「仕方ねえ。許してやる。だが代わりに──」
「代わりに?」
「三日にいっぺん猫の動画を送ってこい。ちなみに最上の家にいる猫は駄目だぞ。あれは俺の猫だからな」
うん? 結愛は首を傾げた。
「それで許してやる。返事は?」
「あ、うん。はい」
龍は満足そうに頷いた。
それで結愛はそれ以来龍に〈魅惑の猫動画〉を送る羽目になったのだ。
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