エピソード2 この猫 猫の子 猫の子 子猫 1

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**  事務所には結愛のキーボードを叩く音だけが響いていた。  いつもののんびりした午後。青塚は机の脚を上げて椅子にふんぞりかえって雑誌を読んでいる。昼食をガッツリ食べたせいかすっかり眠そうで、読んでるはずの雑誌を何度も顔の上に落としていた。過去何度も青塚には「15分くらいソファで横になって昼寝をするといいらしい」と結愛は進言していたが、青塚は毎回「15分で起きられるわけねえだろ」と言って結愛のいうことを聞こうとはしなかった。それもあって結愛はもう気にしないことにした。  そんないつもの午後のはずだったのに、事務所の扉がいきなりガンッと大きな音を立てて開いた。 「テメエ! どういうつもりだッ!」  カチコミか? と慌てて青塚は起き上がった。 「──なんだ、龍かよ。どうした?」  大きな怒号と共に飛び込んで来た龍に青塚はのんびりと言った。龍は青塚の机の前までズカズカと歩いて行くと、両手を机の上に叩きつけた。 「どうもこうもねえ! このガキが変なこと言いやがってこっちは迷惑してるんだっつーの!」 「変なこと?」 「コイツが俺の愛人だって!」龍は結愛をビシッと指差して怒鳴った。 「あ」  そうだ。忘れてた。 「その顔だと身に覚えがあるみてえだな?」龍は結愛をギッと睨んだ。 「えっと」 「なんだぁ、そんなこと言ったのか?」青塚は相変わらずのんびりと声を発した。 「──ごめんなさい。伝えるの忘れてた」結愛は龍に頭を下げた。 「あ? 伝える伝えねえの話じゃねえわ! なんでそんなこと言いやがったのかって聞いてンだよ!」 「お好み焼きが焦げるところだったから」 「はあ!?」  龍はいつものクールさからは考えられないような声をあげた。 「ごめんなさい」 「ごめんで済むなら警察はいらねえわ」 「でもコイツの親父は警察だぞ? あ、ごめん」青塚の妙なジョークは龍には全く通じなかったようだ。 「おいガキ! 言っていいことと悪いことがあるからな」  龍はまだめちゃくちゃ怒っていた。青塚は仕方なく龍に向き合った。 「確かに嘘をついた結愛は悪い。でもお前さんはなんでそんなに怒ってるんだ? 別にいいだろ、いま彼女いないんだし。愛人の一人や二人」 「は?」 「いや、言い過ぎました」  龍は青塚に凄んだ後、長いため息をついた。 「──面倒くせえんだよ」 「何が?」 「このガキの言ったことを次の日にはみんな知ってて。『彼女は作らないって言ってたのに愛人は別腹なのね』って……愛人にしてくれって通知が止まらねえの!」 「──モテる自慢?」結愛の口からふいにこぼれ落ちてしまった。  龍は無言で結愛の前までやってきて、いきなり両手をグーにして頭をグリグリやり始めた。 「いたたた!」 「少しは反省したか、ガキ! もしこんなこと香川さんの耳に入ってみろ。明日には俺は加賀署の留置所にいるわ」  なんで〈明日には加賀署の留置所にいる〉のか結愛には分からなかったが、青塚は「あー」と苦い顔をしていた。 「まあ、それはなくはないかもなあ」 「だろ? 青塚さんなら分かるだろ?」龍がそう言うと、青塚はうんうんと頷いた。 「香川の取調べは地獄だからなあ。結愛、もういっぺん謝っておけ」  青塚がそう言うと龍はグリグリしていた手を止めた。 「ごめんなさい」 「若えオンナが〈愛人〉なんて言葉を軽々しく口に出すんじゃねえわ!」 「──はい」そう言われてやっと結愛は項垂れた。結愛のことを心配してくれてることが分かったからだ。 「仕方ねえ。許してやる。だが代わりに──」 「代わりに?」 「三日にいっぺん猫の動画を送ってこい。ちなみに最上の家にいる猫は駄目だぞ。あれは俺の猫だからな」  うん? 結愛は首を傾げた。 「それで許してやる。返事は?」 「あ、うん。はい」  龍は満足そうに頷いた。  それで結愛はそれ以来龍に〈魅惑の猫動画〉を送る羽目になったのだ。
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