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その日もいつものように夕食を作りながら、彼の帰りを待っていた。
「ただいま」
「おかえり。ご飯できてるよ」
キッチンからそう伝えると、彼はネクタイを緩めながら席に着き、机に置かれた出来立てのシチューを口に運んだ。
「これ、めちゃくちゃ美味いな」
子供のように顔を綻ばせながら、ふうふうと息を吹き掛けてシチューを冷ます彼を見て、胸が締め付けられた。彼が時折見せるその無邪気な笑顔は、いつも私を同じ気持ちにさせる。
いつしか自分の中に芽生えていた、見知らぬ感情。それは、彼と共に過ごすうち、むくむくと肥大化していたのだ。
✳︎✳︎✳︎
「今日、一緒のベッドで寝てもいい?」
「どうした? 珍しいな」
彼は少し驚いた顔をした後、微笑みながら、おいで、と手を広げた。やがて、私を抱き締めたまま、気絶するように眠ってしまった。きっと、仕事で疲れているのだろう。
毎晩のようにうなされて、しきりに誰かに謝っている彼が、今はすうすうと安らかな寝息を立てている。優しい夢を見ているのかもしれない。私はそっと体を起こし、彼を見下ろしながら、その柔らかな髪を撫でた。
そして、ベッドの下に隠しておいたナイフを取り出し、下腹部へとゆっくり突き刺した。
鋭いナイフが柔らかい肉を無理やりに引き裂き、ミチミチと音を立てながら体内へとめり込んでいく。それは初めて体験する感覚で、私は恍惚とした。
「はっ? なんだよ、これ……」
彼は飛び起き、何が起きているのかわからない、という顔をして、自分のお腹と私の顔を何度も交互に見た。それがなんだかとても滑稽で、思わず吹き出してしまう。
呆然とする彼をよそに、ナイフを体から抜き取り、再び振り下ろした。何度も、何度も。
白いシーツがみるみるうちに真っ赤に染まっていく。それは、かつて彼が初めて私を貫いた夜を彷彿とさせた。
「ど……じで……」
「逆にどうして、人にこんなことをしておいて、いつまでも平穏に暮らせると思ったの?」
「……」
彼はその目を大きく見開き、口からゴボゴボと大量の血を溢した。
「今日ね、目を細めながらシチューを啜るあなたを見た時、ふと思ったの。なぜ、私は毎日律儀に食事を用意して、あなたを生き永らえさせているんだろうって」
──あなたが生きることは、私が苦しむことと同義なのに。
いつからだろう。彼の屈託のない笑顔を見ると、胸が抉られるように苦しかった。どうしてこの人は、こんな風に笑えるんだろう。私はもう二度と、元通りには笑えないのに。
どれだけ酷い仕打ちを受けても、彼に優しく抱き締められると、温かくて安心した。もしかしたら今度こそ、この悪夢が終わるかもしれないと思った。けれど、次の日になると、彼は容赦無く私を嬲り尽くした。
毎日、毎日、毎日、同じことが繰り返された。心も体もぐちゃぐちゃに掻き乱され、もう二度と、私は元の私には戻れないことを知った。
私をこんな風にした彼が憎くて、許せなかった。こんな生活が一生続くと思うと、耐えられなかった。
彼を愛おしく思う気持ちは確かにあった。しかし、いつしか芽生えた憎悪が、それを遥かに上回ってしまったのだ。
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