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「……」
「ねえ、無視しないでよ」
肩を揺さぶっても、彼は何も答えなかった。ただ驚いたような顔で、私をじっと見つめている。
そういえば、私たちがこんなことになってしまう前。平和に暮らしていた頃、誕生日にサプライズを仕掛けた時も、同じ顔をしていたことを思い出した。
「……」
「……」
だんまりを決め込む彼に痺れを切らし、返り血を浴びたパジャマをその場に脱ぎ捨て、そのまま浴室へと向かった。
レバーを倒し、勢いよくシャワーを出す。どれだけ熱いお湯を浴びても、ありったけの力を込めて体を擦っても、なぜか汚れは二度と落ちない気がした。私は爪の間に入り込んだ血を掻き出しながら、これからのことを考えた。
これまでの暴行の様子は、盗聴器で記録している。証拠さえあれば、恐らく正当防衛が認められるだろう。そもそも、12才の私が罪に問われることはない。実の父親から性的虐待を受けていた可哀想な娘だと、世間は同情してくれるに違いない。
──2年前、幾度となく浮気を繰り返す母に我慢の限界を迎えた父は、口論の末、母の頬を思い切り殴り付けた。
逆上した母は、半狂乱になりながら荷物をまとめ、父に一方的な別れを告げた。母と共に家を出るか、父のもとに留まるか、私は苦渋の決断を迫られた。
玄関先で絶叫しながら私を急かす母に気圧され、父に別れを切り出すと、父は目に涙を浮かべながら「頼むからお前だけは、おれを捨てないでくれ」と、追い縋った。
雨に打たれた子犬のように震える父の姿が憐れに思え、どうしても彼を見捨てることができなかった。
数ヶ月後、父が狂い始めた頃、私は母に電話で助けを求めた。
母はただ一言、「あの頭のおかしい男を選んだのはアンタでしょう」と言ってのけ、電話を切った。電話口の向こうからは、新しい彼氏と思しき声が聞こえた。
それから何度電話を掛けても、母に繋がることはなかった。
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