ある朝トイレに入ったら便器がきれいに消えていた

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     カーテンの隙間から差し込む朝日で、目が覚めて。  布団をはねのけた俺は、ベッドからも部屋からも出て、短い廊下を歩いて、トイレへ向かう。  ここまでは、いつもの朝なのだが……。  トイレの扉を開けると、そこにあるはずの便器がなかった。  腰掛便器というのが、正式名称だっただろうか。ごくごく一般的な、洋式の水洗便所。  普通ならば視界に入るはずのそれが、すっかり消えていたのだ。  いつも俺が尻を座らせていた便座部分も。  トイレの床とガッシリ繋がっていたはずの便器本体も。  水洗便所の命ともいえる水を大量に蓄えていた水洗タンクも。  何から何まで、きれいサッパリなくなっているのだった。  奥の壁からは、水洗タンクと繋がっていた金属菅が、取り残されたように虚しく突き出している。  また、トイレの床には、ポッカリと穴が空いていた。今まで水洗便器で流された汚物は、ここを通って下水道へ向かっていたのだろう。しかも、蓋になっていた便器が消えたせいか、プーンと悪臭が立ち上っている。 「おい、おい。これ、どうしたらいいんだ……」  朝の尿意も忘れて、そんな言葉が口から飛び出した。  (くさ)いならトイレから出ればいい、とか。  うちのトイレが使えないなら他を当たるしかない、とか。  一番近くの公衆便所はどこだっけ、とか。  そうした冷静な判断力も、いざとなったら失われてしまう。ただただ唖然として、しばらくの間、何もないトイレで何もせず、ボーッと突っ立っていたら……。  突然。  どこからか、ザーッという音が聞こえてきた。  続いて、視界が一瞬、歪んだかと思ったら、消えた便器が戻ってきた。 「あれ? 見つかっちゃったかな?」  便器の横に立つ、一人の不審者と一緒に。 「すぐ返すから、バレないと思ったのになあ。まさか、返却現場を見られてしまうとは……」  ハハハと軽やかに笑う彼に対して、俺は叫んでしまう。 「うちのトイレ狭いんだから、男二人も入れねーよ! 用が済んだら、早く出てけ!」  本当は、もっと他にツッコミを入れるべき点があったのだろう。  例えば、男が着ているのは、体にフィットしすぎたピチピチの銀色スーツ。まるで、昭和のSF漫画に出てくる未来人か宇宙人の姿だった。  今だと、むしろ「コスプレ?」と言われそうな格好だが……。 「ああ、そうですよね。ちょっとトイレ借りただけなんですけど……。いや本当に、少しの時間だけでしたから。気にしないでくださいね。それじゃ!」  全身銀色の男は、相変わらず軽い感じで挨拶。  再びのザーッという異音と、一瞬の景色の歪み。それらを伴って、男は姿を消してしまう。 「昔のSF映画で見た転送装置って、こんな感じだったっけ……」  独り言を口にした俺は、同時に、尿意をもよおしていたことも思い出すのだった。  その後。  あの銀色スーツの不審者とは、二度と遭遇していない。  また、この話を誰かに口外することもなかった。どうせ信じてもらえないだろう、と思ったからだ。  ただ、トイレに入る時――特に漏れそうな時は――、つい身構えてしまう。便器がなかったらどうしよう、と。  そして、ふと思うのだった。  未来人だか宇宙人だか知らないが、彼らは、俺たち人間の習慣を微妙に誤解していたらしい、と。  彼が口にした「ちょっとトイレ借りる」という言葉は、そういう意味ではないのに、と。 (「ある朝トイレに入ったら便器がきれいに消えていた」完)    
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