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 青沼はひと言で会話を打ち切った。いつまでもくだらない会話につき合っていられないよと言いたげである。ハンドルを握り直した。  後部座席のもうひとり、杉淵衛からは何も言葉がない。それとなく様子をうかがえば、腕組みをしたまま考え事でもしているかのように俯いている。表情は防火ヘルメットに遮られて確認できない。一番員は現場到着までは余計なことを考えないマイペースな男なのだ。  手形山消防署は矢留市の北東部を管轄しており、その三分の二は山岳地帯といってよい。出動先は標高およそ千二百メートルの奥岳に連なる前岳の麓である。  ポンプ車は大平山(たいへいざん)へ向かう一本道に入った。  青沼の目つきが自然と厳しくなる。  車がカーブするのに合わせて身体を動かすと、汗で濡れたTシャツが身体にまとわりついた。気持ち悪いことこの上ない。既に火災現場で活動したかのような気分になる。車載無線機の音量を調節しようと前かがみになったら背中一面を生温かい感触が覆った。思わず身をよじる。  街灯は、裸電球に傘がついたものがときどきぼんやりと灯っているだけ。車のライトだけが頼りだ。  弱弱しい灯りに照らされて、『カモシカ注意』の看板が視界に飛び込んでくる。  出動指令の内容は、温泉施設に隣接している宿泊棟一階の厨房から出火ということであった。  
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