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時は2週間前、5月の8日に遡る。この頃のアキレイの土曜は朝9時にはとっくに活動を始めていた。軽く身支度を整えたあと自転車でバイト先まで赴き、従業員の出入口である勝手口をくぐる前に長い前髪を真っ直ぐに整え、早番で弁当の管理をしていたパートさんと店長に挨拶をし、シワひとつないブラウスと店の名前が入ったジャケットに袖を通して用意されていた弁当を原付に積み込む。通常であれば弁当は小型トラックで配達するのだが、アキレイの担当している地域は住宅地のはずれにあり注文数も少ないため、店が保有している少し錆びついた原付1台だけで配達をしていた。配達先は山のふもとにある道路をまっすぐ進めば辿り着くため、距離こそ遠いものの彼女にとってこの仕事は苦ではなかった。
積み込み終え次第、決められたルートに従って原付とともに道路を走る。家々が密集した住宅地を外れると、道路はすぐに田んぼと山に囲まれる。ときどき野生動物の狸や鹿が飛び出してくることはあれど、毎週通るこの道には車どころか通行人すら滅多に現れることはない。
届け先に辿り着くまで片道40分、距離にして20キロメートル。アキレイは時速30キロより少し遅い速度で原付を走らせながら、空なり山なりチラチラと目配せして、1週間前の景色を思い出しながら間違い探しをする。これはアキレイにとって毎週恒例の楽しみであった。今回見つけられたのは、田んぼに前はなかった苗代が綺麗に整列されて並べられていること。頭だけ見えていたタケノコが竹になっていたこと。藤の花が綺麗に色づいたこと等々である。季節の変わり目ということもあり、先週とは異なるものが多く見つかったことに彼女の口元がわずかにほころんだ。
そろそろ民家が見えてくるというところまで間違い探しを続けていると、3羽のカラスが道路に群がり、左車線を塞いでいる。アキレイはスピードを緩めてその10メートルほど後ろで止まり、そのカラスを観察した。群がっているのは街中でみるカラスとは少しくちばしの形状が異なるハシボソガラスである。なにか餌でも落ちていたのだろうかと原付に跨りながら背伸びをすると、黒い6本の足の下に、黒いような、赤いような液体がじわりじわりと面積を広げていた。
(今度はウサギかシカか……自然社会も物騒なこって)
山道付近を走っていれば、野生動物が悲惨な状態で倒れているのを見かけるのは少なくない。少し身を乗り出して対向車線に車が通らないことを確認してから、アキレイはハンドルを捻ってエンジンをふかした。カラスは賢い生き物であるため、ちょっかいをかければ報復されてもおかしくはない。刺激しないのが得策だと地面を蹴り、カラスから距離をとるようにして車線を越え、視線を向けるだけに留めて3羽の横を通り過ぎようとした。黒い翼に、黒い嘴に、黒いコンクリートに、黒い血に、黒い髪……。
ブゥゥーーーーッッ。
けたたましいクラクションの音に驚いたカラスらが、ガァーガァーと鳴いて飛び去って行く。バサバサと羽音をたてて背の高いブナの木に止まると、邪魔をしてきた人間の様子を伺うかのように地面を見下ろし始めた。
クラクションを鳴らした張本人であるアキレイは対向車線で呆然としていた。風に煽られて乾燥していた肌にじっとりとした汗が吹き出す。その粒の数は20度前後の気温に対して流れる量ではない。だが彼女の頭に詰まった熱を放出するにはそれだけでは足りなかった。じんじんと脳が暴れたような鼓動がし始める。息が乱れ、肩が荒々しく上下する。むわっとした血の匂いが5月の涼し気な風を台無しにしていた。
『アキレイ!! そんなもの触らないの!! そのスズメがどんな病気持ってるのか分からないのに!!』
『でも、埋めてあげないと……じゃないと踏まれちゃうかも。カラスに食べられちゃうかも。それに…………』
『そんなの誰か別の人がやってくれるから!! ほら、いいから行くよ、ほら!!』
『けどお母さん……それじゃあ次ここを通った人が……』
『誰も見てないんだから平気よ!! なにもあんたが汚れ仕事する必要なんてない!! 他の誰かに任せておけばそれでいいの!!!! どうせ誰かがやってくれるんだから!!!!』
呼吸が乱れたアキレイの脳裏に、当時小学1年生だった時の記憶が流れた。入学式の帰り道にたまたま見かけたスズメの死骸を埋めようとして、しかし母親に止められ出来なかったという些細な記憶である。
アキレイは離しかけていたハンドルを握りなおした。湿り気の帯びたグリップを捻り、黒いコンクリートをつま先が叩く。唸るエンジン音が5月の風を汚した。
「大丈夫ですか? 声、聞こえますか?」
カラスが目をおろした先には2人の人間がいた。ひとりは地面にうつ伏せになって血の池をつくり、ひとりはその人間の体をひっくり返そうと顔を真っ赤にさせている。原付は彼女らのいる車線の、20メートルほど離れた場所に置かれていた。それも仮にこの車線に車が通るとしたら、間違いなく邪魔になる位置である。
決心してスタンドを止めたアキレイは被っていたヘルメットを脱いで、積み荷からおしぼりや割り箸、ビニール袋、水、メモ帳などなど、持っていたヘルメットに躊躇なく詰め込んでから男のもとへと駆け寄った。顔は血や泥で汚れているためよく見えないが、体躯的に40代くらいの男性であることが分かる。
アキレイは全身全霊で男の体を仰向けにすると、腹部の傷が顕になった。刃物で掻っ切ったような傷口の大きさは20センチほどで、上から覗き込むと血の海の底のものが見えてしまう。
アキレイは声をかけながらその胸に耳を当てた。自分の鼓動が邪魔で息を止めるが、それが逆効果であることに気づかない。しびれを切らしたアキレイは男の首元を包むように手のひらで覆った。だが鼓動は聞こえてこず、心肺停止状態であることが判明する。心肺停止してどれだけ時間が経ったのか。これから蘇生して間に合うのか。募る不安はあれど、アキレイは次にするべきことは何かと深呼吸した。
止血、応急処置、心肺蘇生は先に胸骨圧迫から……いや、その前に救急車を……。
ジャケットの胸ポケットに仕舞っていた自分のスマートフォンを取り出し、『119』の番号にコールする。
プルルルルルル。プルルルルルル。
そのコール音が鳴っている間にも、アキレイの視線は出血した腹部、青白い顔、ヘルメットに詰め込んだ箸やおしぼりへとせわしなく動き回っていた。
『おかけになった電話は電波の届かない場所におられるか、電源が入っていないため、おかけすることができません。』
1度目ではその言葉が聞き取れず、2度目のコールでようやくその機械的な声が発した言葉を理解する。なぜ電波が通じないのだろうと2度目のアナウンスを聞き終えたあと、耳から携帯を離し画面左上にある“圏外”の文字を視認して、その時ようやく彼女は理解した。山1個分。町からほんの少しだけ離れているだけだというのに、この文明の利器は今の状況の何の役にも立たない板へと化していることに。
長い前髪に隠された切れ長の目が、じわりと潤った。視線が泳ぎ、迷い、男から逸れたがる。力強くスマホを握りしめた手は震え、関節が白く浮き出ていた。
アキレイの頭の中には、例のスズメの記憶と、高校や自動車学校等で幾度も習った応急処置の方法が散らばっていた。胸骨圧迫のリズム、呼吸の有無の確認方法、AEDの使い方や心電図の読み取り方。いま最も優先するべきものはどれか選別しようとするも、ぼやけて半端な知識が目の前に散らついて、掴もうとするとそれでいいのだろうかと不安になる。右左背後とあたりを見回すが、当然誰かが教えてくれるわけではない。誰もいないのだからそれは当然であった。
見物人のカラスが2羽増えた頃に、じわりじわりと範囲を広めていた赤い池が、アキレイの仕事着にまで浸食した。膝に感じる生暖かい感触は、温泉とは比べ物にならないほど不快なものだった。
ガタガタ震えた手からつるりとスマホが滑り落ちた。プラスチックがコンクリートを叩く音がまるで銃声のように聞こえる。それが火種になって、アキレイの抑えていた恐怖心が爆発する。
_____誰も見てないんだから平気よ!! なにもあんたが汚れ仕事する必要なんてない!! 他の誰かに任せておけばそれでいいの!!!!
(いいの、かな……)
シャリン、シャリシャリン。
アキレイが髪を振り乱して背後を振り返るも、そこにはただ草木の生い茂った崖だけがあった。金属同士がぶつかる鈴のような音がしたはずであるが、空耳だったらしい。
(……とにかく、まずは止血から)
謎の音のせいでごちゃついていた思考が一掃され、脳にはなにも残っていなかった。唯一、膝に感じる生暖かい感触だけが神経を通ってまっさらな脳に流れてくる。まずはこの血をどうにかしなければと、アキレイはジャケットとワイシャツを脱ぎ払った。
ノースリーブのインナーの胸元を二度パタパタさせて熱気を逃がしてから、シワが幾本刻まれたワイシャツを男の腹部の傷にあてがおうとして、その傷内が泥で汚れていることに気づく。まずは汚れを取り除こうと、ヘルメットに詰め込んだおしぼりと水の入ったペットボトルを引っ張り出し、傷に付着した泥と血を丁寧にふき取った。
みるみるワイシャツが赤く染まっていく。それを見届けながら、アキレイは汚れた手を水で洗浄した。
たったひとつ。されどひとつ。
ひとつ仕事をやり終えたという達成感からか、それとも水の冷たさに焦りの熱が冷まされたからなのか、アキレイは濡れた手をハンカチで拭ったあと、すぐにその手を男の口元へと近づけた。腹部胸部ともに動きはなく、呼吸も感じられない。男の口元に付着していた泥を再びおしぼりで拭い、横向けに寝かせようと鉛のように重たい男の肩を持ち上げる。背中を叩いたり、手を男の口に指を差し込んだりして喉に詰まっていた泥を掻き出し、丸めたジャケットの上に男の首を寝かせて再び仰向けにする。そして注ぎ込む酸素が漏れないように気道を確保し、すこし湿ったハンカチ越しに5月の空気を分け与え、アキレイは目尻にしたたる色のない血を拭った。そして休む暇もなく膝立ちになって男の胸の中心に手を重ね、肘をまっすぐ伸ばして手の付け根に体重をかけた。それを素早く一定のテンポで繰り返し、絶え間なく男の胸を圧迫する。
3センチ。自動車学校の実技練習では、それだけしかマネキンの胸をへこませることができなかった。『理想は5センチ、もっと体重をかけないと血は循環しないよ。』と顔も覚えていない教員には叱られた。だがどれだけやっても理想の数字には届かず、息を切らした頃にその実技練習は終わりを迎えた。
本番は、息を切らしても終われない。その理由を知る者は、きっとこの日本にそう多くはいないだろう。
たどたどしく、満点を貰えるほどの処置ではないにしろ、既にアキレイから迷いの色は消えていた。今のアキレイにできることは全部やったため、あとは体力との勝負になる。見物人のカラスが1羽増え、インナーは汗の一粒も吸わなくなり、細い腕がパンパンに膨れ上がる。弱音が尤もらしい理由を挙げて『もうやめなよ』と声をかけ続けるが、アキレイは無視し続けた。それ以外にすることなどないからである。
だが、その声は時と共に大きくなり、そして口数も増え、最後には手段も選ばずに心を折りに来る。終わりが来ない限り折れるか折れないかの2択が永遠に続くのは、継続に必ず付き纏う大きな壁である。
いつ終わる?
いつまで続ければいい?
助かる見込み、そんなんまるでない。
弁当が冷める、また怒られる。
シャツ、もう血吸っていない。
手ごたえってどんなんだっけ? 自分はいま何をしてるんだっけ?
終わりっていつ? 私が倒れるまで? この人が絶命するまで?
瞳孔が開いていたら死んでるんだってクロ兄が言ってた気がする。
人も来ないし、車も来ない。助けを呼んで間に合うはずもない。
ああ、腕が痛い。息が苦しい。
いつまで続ければいいの?
どれだけ続ければいい?
すぐに続けるなら、瞳孔だけ確認しても平気かな。
そのあとは頑張るから。
もう中断しないから。
苦しいのも辛いのも我慢するから、頑張るから。
もう、いい?
骨の軋む音がピタリと止まる。荒い息だけが5月の風に乗って流されていった。
胸骨圧迫を一時中断したアキレイは、筋肉が言う事を聞かない腕をスマホに伸ばした。画面が割れていることなど気にも留めずライトを付けて、痙攣する指で男の瞼を開き、左、右の順で黒い目に光を当てた。
半身が虫に食われたスズメの死骸が脳裏によぎった。
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