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萌芽
「いつまで寝てんだよ、お茶零れてんぞ。つかいい加減そこ退けっての」
ひやっ。
背中につるつるとした冷たいものが滑り落ちていく。アキレイはたまらず飛び起き、白いロングtシャツの中に入ったそれをすぐに探り当てて地面に投げ捨てた。
「んがァァァァァァァ!! は、は? なに、ぜひとも氷漬けで出棺されたいっていう意思表示デスカ?? 発泡スチロールで火葬場に発送されたいっていうご依頼デスカ??」
「喋んな雑巾、さっさとブスでお茶拭け。俺の右手にある氷が目に入らんのか」
「雑巾でもブスでもないわこの性格ブス」
「黙れ顔面ブス。犯罪者顔。推定30代。釣り目の角度22度」
「1を何倍にしたら気が済むん? ……はーいはいはい退きますよー」
零したお茶を布巾とティッシュでふき取り、フローリングにこぼれたお茶はタオルを持ってきてしみこませる。その隙に4つ年上の兄である玄皓はアキレイが座っていた場所に腰掛け、トーストにかじりつきながらマーカーやらメモやらがぎっしり書き込まれた教科書に目を通し始めた。アキレイがちらりと盗み見るもよく分からない専門用語や解剖図ばかりが書かれておりまったく内容が分からない。玄皓が医大生となってからは彼が食事中に医学書を読むことなど日常茶飯事となっていたが、こんなものを見て食欲が失せたりしないのだろうかと疑問に思う。
「ねえ、玄皓って実際に見たことあるの?」
「なにが?」
アキレイが指を指したテレビには、バスの落下事故による重傷者の数が報道されていた。ニュースを一瞥した玄皓はすぐに教科書に視線を落として、「まあちょっとな」とトースターを咥え直した。アキレイがふーんと相槌を打つ間にも、ニュースは淡々と死傷者の数を告げ、最後に「病院で4名の死亡が確認された」と報道した。
「死亡って医師が判断するじゃん」
「ん? まあそうだな」
「例えば倒れている人がいたとして、心肺停止状態だったら早急に心肺蘇生始めるとするでしょ。けど明らかに助からないなってなったら、一般人が勝手にやめていいの?」
「助からないなんて一般人が分かるとは思わねぇけど、そんなん救急隊員が指示するだろ」
「指示できない状況だったら? AEDもなくて、携帯も圏外で、とか……まあ、例えばだけど」
「絶対に居合わせたくねぇ現場だな……。そもそも心肺蘇生のやめ時なんて明確にされてねぇし、専門家としては『知識のない一般人に下手のこと言えないから可能な限り続けてくれ。』ってことなんだろ。それが助かる命だったら生存確率は上がるわけだし。つまりまあ、第1発見者のやる気次第じゃね?」
ぐちゃり。タオルからお茶が絞り出され、小さくなっていたお茶の水溜まりが少しだけ広がる。アキレイは再びふーんと相槌を打って立ち上がり、2枚目のタオルを取りに洗面所へと向かった。
「あ、立ったついでにテレビ消してくんね? 気が散る」
「え? ああ、ほーい」
床を綺麗に拭き終えたあと、アキレイはそれ以上玄皓に茶々を入れず、袖も背中も濡れたtシャツを洗面所で脱ぎタオルとともに洗濯機に放り込んだ。そして愛着しているパーカーに着替えてからリビングの隣にある八畳の和室へと移動し、母に頼まれていた仕事にとりかかる。しかし頭の中はまだごちゃごちゃしていた。兄の言葉がぐるぐるしている。
____つまりまあ、第1発見者のやる気次第じゃね?
兄がいるうちは掃除機をかけられないため、アキレイは母に頼まれていた祖母から送られてきた段ボールをの前に胡坐をかき、ガムテープを剥がして中のものを取り出した。璃寛茶色の風呂敷で包まれた陶器の器に始まり、祖母が使い古したブランドもののバック、目がチカチカするほど装飾のついた指輪やパールのついたネックレス、黄ばんだ紙の巻物、古いお金、着物が4着ほど入っていた。高級そうなものばかり入っているのはどういうことなのだろうと思っていると、段ボールの底に母宛に書かれた手紙を発見する。しかし勝手に開封することはなんとなく憚られた。
そのほかのカバンや装飾品等も勝手に片付けるのはしのびなく思い、シワにならないよう着物だけ残し、バッグ、装飾品や貴重品、白磁色の器、手紙の順で戻すことにする。よれや汚れがつかないように慎重になって段ボールに入れていき、次は割れ物類を片付けようと風呂敷ごと持ち上げる。するとコロコロと手のひらに収まるくらいの小さなガラスの器が飛び出して畳の上を転がった。アキレイは一瞬肝を冷やしたが、たいした外傷はなかったため胸を撫でおろし、手に持っていた風呂敷を畳の上に広げて転がったガラスの器を拾い上げた。良く見るとその器には鳳凰を模したような細工が施されており、底の部分には穴が開いている。食器と一緒に風呂敷に包まれていた紐とガラス棒のパーツを底の穴に通すと、それは綺麗な玻璃製の風鈴となった。ただ通常の風鈴とは違い、舌と呼ばれる風鈴の縁にぶつかって音を鳴らす筒の上に、赤い羽根のような形をした花弁をもつ花らしきものが舌同様紐に通されている。横から見るとまるでその花がガラスの器の中に閉じ込められているようだ。
風を受ける役割の短冊のような紙は見当たらないため、アキレイは紐をつまんでかるく風鈴を揺らしてみた。すると、チリンチリンと澄んだ音色が八畳の空間に響いた。空気が浄化されていくかのような清涼感が音色から漂う。通常、玻璃製の風鈴の音色は軽く、陶器製や鉄器のものと比べて響きが小さいものが一般的である。しかしこの風鈴はガラス特有の響きとはまるで違う、重厚で深い音色を持っていた。アキレイの頭の中にチラついていた血やら死やらという言葉が、まるで水をかけたみたいに洗い流される。アキレイはもう一度その不思議な音色に聞き入ろうと、目を瞑って風鈴を揺らした。
チリン、チリンチリン。
まるで木陰にいるかのような、せせらぐ川の音色を聞いているかのような。涼しさを感じるどころか若干の寒気までしてきて、アキレイは風鈴を持っていないほうの手で肘をさすった。そのまま肩まで撫で上げ、二度三度二の腕をさすって、パーカーの袖が無くなっていることに気づいた。い草の香りがしないこと。風の吹く音や鳥のさえずりが聞こえてくること。なにより足の裏に感じる地面がざらざらしていること。
(……いやまさか、そんなことある? だって、服……ひょっとして……)
全身に感じる妙な解放感に嫌な予感がする。神や幽霊、宇宙人といったオカルト話はまったくもって信じないアキレイは、まず最初に夢であることを疑った。目を開ければあの八畳の和室があるはず。そうであるに違いない。むしろそうでなきゃ困る。
アキレイは俯きながらおそるおそる目を開け、目の前に広がる景色を確認して、すぐに大きくため息を吐いた。眼前にあるのは落ち葉の茶色、新芽の緑色、そして自身の肌の色。
持っていた風鈴が手から零れ落ちた。
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