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全身を白い特殊ポリエステルで覆った男が、帰ってきた。
「今日は一匹だ。ったく、暑くてたまんねーな。このウェア、全然、涼しくならねー」
ひみこの父、太郎は、水がたっぷり入ったバケツをドンと置き、つなぎのクールウェアを脱ぎ散らかす。
彼は気が向くと、川で釣りをする。
今日の釣果は、体長二十センチほどの川魚。鯛に似ているが、熱帯魚のティラピア一匹。
「いつもの奴じゃん」
ひみこはがっかりした。大きさも普通だ。
母の花子がやれやれと欠伸をしながら、魚の尾をむんずと掴む。
「……父ちゃん、釣ったらすぐ魚の下処理してくれ。血抜きしないからいつも生臭くて、あーあ、服、ちゃんとたたんで」
「うるせー! そんならお前、自分で釣ってこい!」
「うるさいのはあんただろ。漁船買ってマグロ獲ってくりゃいーのに……やっぱ海の男っていーよね~」
花子は、染みだらけの木のまな板をキッチンに置き、魚を捌き始める。
「ひみこ、ほら手伝って」
「え~、嫌だなあ」
魚を食べるのはいいが、腸や鱗を取るのが面倒くさい。
「父ちゃん、魚じゃなくて、肉はないの?」
「お前、母ちゃんソックリになってきたな。支給品の米と野菜と虫の佃煮だけじゃかわいそーだから、俺が多摩川まで歩いて釣ってやってんのに、それかよ」
ひみこは「肉」を食べたことがない。両親が子供の時はまだあったと聞いている。ドラマに出てくる焼肉やステーキは、本当に美味しそうだ。母の言う「マグロ」にも憧れる。
花子は下処理を済ませると、クールウェアを着こみ、七輪を外に持ち出した。
ひみこは母につられて、そのまま魚を運ぶ。
「うっ! あづい~!!」
「バカだねこの子、白い服着ないで外に出るなんて」
「母ちゃんにバカって言われた~」
ひみこは本気で悔しがった。親に「バカ」と言われることは腹が立つ。
が、この灼熱の古都、東京で「白い服」をかぶらないで外に出るのは自殺行為だ。
花子がやれやれと魚を七輪に乗せ、火をおこす
「何でこんな原始人みたいなこと、あたしら、しなきゃいけないんだろうねえ……」
それは、彼らが日本語族だからだった。
二十二世紀後半、少子高齢化を克服した日本は、前世紀と同様の人口を維持していた。
しかし、その代償というわけではないが、日本語を母語として話せる者は急速に減った。今や日本語族は、東京で昔ながらの暮らしを営む、鈴木一家三人だけ。
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