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牛なんて、大嫌い。
くさいし、よだれべたべただし。でっかい鼻はいつだってしっとりと湿っていて、餌をあげるとそれをつなぎに擦り付けてくるから、汚れるし。
乳量を追求しすぎて大きくなりすぎた乳房は、あの子たちの体には重すぎる。動きが不自然で歩くのも、寝るのも、起きるのも、億劫そうだ。
大体、この子たちは、私のことをなめている。搾乳してーって搾る所には小走りで入って来るのに、搾ってもらったらすっきり、のっそのっそと、まさに牛歩。作業効率が落ちるから、さっさと、帰り道もちゃっちゃと歩いてもらわないと困るんですけど。
私は、必殺武器の、ホースを約30センチ程度に切ったものを取り出すと、それで牛歩の連中の腰の骨をペコペコと叩いて回る。
「早く、フリーストールに戻って、次がつっかえちゃってるの。早く、もう!」
朝の5時半。一便の搾乳部隊を、シュッシュッ…シュッシュッ…と規則的にミルカーが動く音が響く搾乳スペースから出すと、ゲートが開いて、次の群れが入って来る。最後に出て行った「326」がチラっとこちらを見る。典型的なホルスタインの斑紋で、特に目立つ牛ではないし、乳量が多いわけでもない、お産も滞りなくこなしていて、あと何年かは地味だけれど活躍してくれそうな牛だ。私もこの牧場に働きに来てまだ半年だけれど、なんとなく100頭近くいる牛のことが判別できるようになってきた。
だけど、牛は嫌いだ。なにを考えてるかわからない。お産も見たけれど、がんばれーっていうのが感想。
そもそも、動機が不純だったな、北海道でバイクに乗りたいけれど、仕事はしなくちゃって、牧場の仕事を選んだのが間違い。
朝は早いし、きちんと夜まで働かされて、昼間は2時間とか休憩があるんだけど、その時間にバイクに乗る元気なんて残ってない。
嫌々やっている仕事の恨みは、牛へ行く。
「もう、遅いー!早く出て!」
またホースでペコペコと腰の骨を叩くと、ちらちらと牛が振り返ってこちらを見る。
あたいらも、まおちゃんのこときらいよ
そのホース、いたくもかゆくもないかんね
口ばっかし、えらそうなんだから!
口を開けたらきっとこういうだろう。この娘たちは。
「こっち見ないの、前向いて、歩いて、俊敏に!」
またペコペコと叩くと、彼女たちはすまして、カツカツとフリーストールに帰って行く。
「326」が牛床で胃袋をパンパンに膨らませて倒れているのが見つかったのは、次の日の朝だった。
「誇張症かな…獣医さんには急いで来てもらうけど、もうこりゃだめかな…廃用かもな…」
326はそれを聞いてか、目から涙がつうっと流れ落ちた。そうすると後から、後から涙が流れて、パンパンのお腹でもう起き上がれなくて、足も宙に浮いちゃって転がったまま。
「搾乳しましょう、みんな待ってる…」
一頭のもう見込みのない牛よりも、多くの乳をパンパンに張らした子たちが
搾乳を待っている。行かなくちゃ。
その夜の作業日誌にこう書いた。「326 共済廃用 273、345ミルカー見極め注意 331ケトーシスの疑いあり、注意して見る 仔牛の下痢多数、数頭隔離」
もう、牛なんて大嫌いだ。毎日、毎日、手間がかかってしょうがない。気になってしょうがないんだよ。
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