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病院
「ここから落ちたら楽になれるかな……」手摺越しに下を覗き込む。戸建てに住む俺にとって、七階建ての病院の屋上から見る地面は遙か遠い感じがした。
あの事故から俺の環境は激変した。
車との衝突により、俺の肩の骨と筋は破壊されてしまい、とても野球を続けられる状態ではなかった。
事故を聞いて駆けつけた親父は心配より先に激高した。女の子を助けた事への労いの言葉はなかった。お礼を言いに来た彼女の母親に暴言を吐くほどであった。事故を起こした運転手に全面的に被があることは間違いなかったが、人が死んだ訳でもなく、数百万の金で解決というところらしい。
学校の俺への扱いも変わった。今までは、野球部のエース、学園のスター。
甲子園への船頭の役割であったが、俺の肩の負傷によりその道が絶たれてしまった。心配してくれる部員もいたが、中には親父と同じように悪態をつく者もいた。それに対して俺には返す言葉は見つからなかったのだ。
「はあ、ここから落ちて死んだら……、楽になるのかな」もう少し下を前のめりに覗き込んだ。
「なにしているの?」
「おっ!?」唐突に背後から声を掛けられて落ちそうになる。
「ちょっと、危ないわよ!」声の主は、俺の服を掴んで引っ張った。
「そっちが、急に声を掛けてくるから驚いて……」声の主の顔を見て、俺の瞳孔が開いた。茶色かかった肩までのショートカット、大きな瞳に白い肌。その可愛さに俺の目は釘付けになった。
「なに?私の顔に何かついてる」不思議そうに俺を見つめる。恥ずかしくて俺はその視線を逸らした。
「目、鼻、口……」
「えっ、あっホントだ!」彼女は自分の顔を触りながらケラケラと笑った。
「自殺なんて……しないよ」引き留められなかったら、飛び降りていたかもしれない。
「そうなんだ、じゃあ良かった。余計なお世話だったわね」首を傾げて微笑む。
「……」言葉が出て来ない。
「ここ危ないよね。簡単に屋上に上がれるし柵も、そんなに高くないから……、何人か飛び降りした人がいるようよ」さらっと怖い話をする。
「なんでまた……?」
「だってここ病院よ……、色々とあるんじゃないかしら」彼女の瞳は遠くを見ているような感じだった。
「怖えな、幽霊でも出るんじゃ……、まさか!?」
「えっ、私?違うわよ、ちゃんと足あるし……」そう言いながら右足を前にだした。そういえば、最近の幽霊は足が無いなんて聞かない。
「あんたは何してるんだ、こんな所で?」人の事を言えた義理でもないが会話力には自信がないのでひとまず思いついた事を口にする。
「今日は朝から精密検査だったの。もう疲れちゃって、人が居ないところに行こうと思ってここに来たら、目の前に飛び降りしそうな人がいたから驚いちゃて」
「だから飛び降りなんて……」少し否定する事に躊躇う。
「なんか悩みがあるなら、お姉さんが聞いてあげるよ少年」そんなに年は離れていないような気がするが、そんな事はどうでもよかった。
「実はさ……」なぜか、初めてあった少女に俺は事故からの顛末を話した。そして、その後の周りの反応の事も、彼女は黙って何度か軽く相槌をつきながら話を聞いてくれた。その絶妙な間が心地よく俺は遠慮無しに話を続けた。
「そうなんだ。確かにずっと夢見てきた事が崩れたら悲しいよね。でも、女の子を助けた君はもっと胸を張っていいと思うよ」そう言うと、彼女は包み込むように俺の体を抱いた。
「ちょっと……!」唐突な行動に面食らう。
「いいから……」少しの時間が過ぎた。
「ねえ、名案!左投手に転向って、どう?」
「「左!?」何を言い出すのかと思えば……。
「キャプテンの谷口とか、メジャーの茂野とかも利き腕壊したけど、左で復活下じゃない」
「キャプテンって、古い漫画じゃ……、そんな簡単に……」俺は彼女の体を引き剥がしながらそれを否定する。
「えー、良い考えだと思ったんだけどな」
「よくそんな漫画知ってるな?」俺はずっと野球漬けだったせいでテレビもまともに見たことがなかったが、親父がコレクションしていた野球漫画はいくつか読んだ。
「うん、私やることないから漫画とか小説はいっぱい読んでるの。」
「それにしても古すぎだろ」なぜか爆笑してしまった。
「じゃあ、いっそのこと彼女でも作って楽しんだらどう?」彼女は少し上目遣いで提案してくる。
「な、なにを……」
「もしかして、もう居るの?」
「いや……、居ない」学校も男子高で女っ気など皆無だ。年増の女教師が一人いるぐらい。正直いうとこんなに女子と話すのは中学校以来であった。
「ふーん、そうなんだ。じゃあ私とLINE交換しない?」
「LINE?」俺のLINEには、男しかいない。
「私も友達少ないのよ、いいでしょ?」
「ああ、構わないけど」彼女がQRコードを見せたのでそれをよみとった。
「浩之、浩之君っていうんだ」プロフィールを確認して俺の名前を言う。
「君は、タモツ、タモツさん?変わった名前だね」彼女のプロフィール写真はペンギンだった。
「そう、……タモツよ。よろしくね、浩之君」彼女の髪が優しい風にたなびいた。
「よろしく……」こんなに女の子に免疫が無かったのかと思うくらい顔が紅潮している事を自覚していた。
「ところで浩之君は、何年生?」
「ああ、二年生」
「そうか、中学二年生か、それにしては少し小さいね」悪びれもせずに彼女はその言葉を口にする。背が低い事は、俺のコンプレックスであった。
「いや、高校二年生……」
「えっ、高校……」
「そう……高校生」
「ちょっと、同じ学年じゃないの!早く言ってよ」思いっきり俺の肩を叩いた。
「痛え!」そこは交通事故で痛めた場所であった。
「あっ、御免なさい!」慌てて叩いた場所を擦ってきた。どうやら、少し天然のようであった。
「タモツさんは、入院してるの?」彼女はパジャマのような服の上に上着を羽織っている。
「ええ、もうすぐ退院出来ると思うけど、君は通院だよね」彼女がなんの病気なのか気になったが、そこは遠慮した。
「ああ、週に何回かは……」
「じゃあ、次来る前に連絡頂戴。話し相手が居なくて私、暇なのよ」彼女はスマホ前に見せた。それはまるで水戸黄門の紋所のように見えた。
「解った……」俺は嬉しい気持ちを隠しながら、返答を返す。
「それじゃあ、私は病室に戻るわね」タモツは手を振りながら去って行った。
(左……か……)俺は左手を見つめた。先ほどまで、自殺を考えていたのが嘘
のようであった。なんだか、また彼女と会える時が少し楽しみに感じていた。
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