HARIKOMI Bitter&Sweet

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   有栖川公園。正確には有栖川宮記念公園。これ程までに魅惑的な公園の名が、他にあるなら教えてほしい。  由緒ある皇族の気品が漂い、おとぎの国に迷い込んだかのようにメルヘンチック。おまけに大御所の推理作家を連想させるミステリアスな側面まで持ち合わせている。  この公園の魅力は、もちろん名前だけじゃない。広尾駅か麻布十番駅から数分歩き、少し坂を登ったら出迎えてくれる、大都会のオアシスだ。今日みたいな真冬の晴れ間の日には特に、程よいサイズの池の水面が宝石みたいに煌めいている。そして木々の小枝にはメジロ達がやって来て、楽しげな声を聞かせてくれる……  午前9時。厚みのある木製のベンチに座りながら、僕はここ数年で一番に心踊らせる自分をもてあましていた。  待ち合わせの時間まであと30分。もうすぐ結城さんがやって来る。今日は密かに恋心を抱く、憧れの女性との公園デートなのだ。  といっても、それは正確には「公園デートごっこ」といったもの。僕たちは、わりと大手の探偵事務所に所属する調査員で、結城さんは僕より二つ年上の先輩だ。  大学を出て証券会社に就職した僕は、芳しくない営業成績やコミュニケーション能力の欠如やらで神経症になり、一年足らずで会社を辞めてしまった。半年ほど経った頃、街角で今の事務所の募集広告を見かけ、誤って掃除機に吸い込まれたクリップみたいに入所した。たぶんミステリー好きだった僕の心の奥底には、探偵事務所というものへの憧れがずっと住み着いていたのだと思う。  もちろん現実世界の探偵の仕事は、小説やドラマのように刺激に満ちたものではなく、もっぱら浮気調査や素行調査を日々地道に行う地味な仕事だ。それでも僕にとっては価値の定まらない架空の紙切れを扱うよりは性に合っていたようで、在所期間はあっという間に前職を超え、今年で三年目を迎えていた。  結城さんとは、所内で時々顔を合わせる程度で、一緒に仕事をしたことはなかった。いつもダークな細身のパンツスーツに身を包み、艶のあるロングの黒髪と相まって、とても凛々しい雰囲気を醸し出していた。ただ、切れ長の大きな一重の目はいつも何処か寂し気で、笑顔を見た記憶はない。人付き合いも皆無だったから、所内でも彼女のプライベートを知る人はいないようだった。  今日の任務は、いわゆる「張り込み」。公園前の低層マンションの一室が、妻子あるマル対(調査対象者)の逢瀬の場に使われているらしい。  依頼人である妻によれば、マル対の男は五十代の映像ディレクターで、数年前から仕事場としてその部屋を借りていた。家族の自宅は六本木のタワーマンションにあり、妻は車で自宅へ向かう途中、公園沿いの道を通った際に、仕事場の方のマンションのエントランスで、肩を寄せ合う夫と女の姿を偶然見かけたのだ。その日は月曜日だったから、一週間後の月曜日である今日辺りに再び女がやって来るのでは、と妻は勘ぐった。それとなく月曜日に仕事場の掃除に行こうかしらと探りを入れてみると、案の定その日は来客があるから別の日にしてほしいとの答えが帰ってきたらしい。  僕らの任務は、若いカップルの装いで公園の木陰に身を潜め、今日やって来るかもしれない愛人の姿をカメラに収めること。決定的瞬間をとらえるまでは、絶対に探偵だと気付かれてはならない。気付かれた時点で二度と調査は行えず、依頼者の利益を損ない、延いては事務所の信用を落とすことになってしまう。  要するに、張り込み(尾行も含む)は、探偵業務の中でも最高レベルの慎重さで当たらねばならない任務なのだ。けれども、そんなことは重々承知しているにも拘わらず、僕は昨夜から結城さんのことで頭が一杯だった。
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