そのときのために

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 着替えや印鑑など、入院に必要なものを取りに、一度タクシーで家に戻ることにした。  車窓の向こうに流れる空には朝陽の姿はなく、重々しく淀んでいた。集中治療室にひとり残してきた妻の顔が頭から離れなかった。  喉に乾きを覚えた。考えてみれば、妻が倒れてから何も口にしていなかったが、不思議と空腹感はなかった。空っぽの胃袋の中には、先の見えない不安ばかりが渦巻いているようだった。  タクシーを降り、重たい気持ちを持て余しながら門を抜ける。それほど広くはないが、玄関へと続く敷石の両側のスペースには花や野菜の苗が地植えされてる。  妻が毎日丹念に手入れをしている色とりどりの花たち。大葉やミニトマト、ナスにきゅうりに青ネギに枝豆。花びらや葉にしたたる朝露が目に沁みた。  横開きの扉を引き、誰もいない空間に足を踏み入れる。廊下の床板の軋みがやけに大きく感じられる。水を飲もうと台所に向かう。木戸を引くと生温かい空気とともに、甘辛い煮物の香りが漂ってきた。  ガスコンロのうえには鍋がおきっぱなしになっている。  私は水を飲むより先に鍋の蓋を開けていた。  冬だったなら――  よぎった言葉を封じるように、蓋をそっと閉じた。 「豆苗はね。こうして水に浸しておくと、もう一度芽吹くのよ。だから2度おいしいの」  ――妻がそう説明してくれたのは、確か2日前のことだったか。   流し台の窓際に置かれている豆苗が、わずかに芽を出していた。
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