開花を求めて

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開花を求めて

 その後、何とか定時退社に成功し、直樹と彰は会社から1駅離れた焼鳥屋へ飲みに行くことにした。こじんまりとした個室に案内され、とりあえずビールを注文する。すぐに1杯目が運ばれてきて、2人は乾杯してグラスを口に運んだ。渇いた喉を冷たいビールが潤し、2人揃ってぷはぁっ、と大きな息を漏らす。 「あー! やっぱ仕事終わりの1杯は最高だな! このために生きてるって感じで!」彰がいかにも幸せそうに言った。 「大げさだな。まぁでも、確かに学生の時はビールがこんな上手いもんだって知らなかったよな」  直樹もそう言って再び泡に口をつけた。その間にお通しが運ばれてくる。ついでに枝豆やら唐揚げやらの定番メニューを注文し、定員が去ったところで直樹が口を開いた。 「でも珍しいよな。須田がわざわざ誘ってくるなんて。何かあった?」 「いや、まぁ、大したことじゃないんだけどさ……」  彰は照れたような笑いを浮かべながら辺りを見回している。会社の人間がいないか警戒しているのだろうか。 「……実は俺、教採もっかい受けようかと思うんだ」  彰が直樹の方に顔を近づけ、声を潜めて言った。それを聞いても、直樹は最初大して驚きはしなかった。どうせいつもの大言壮語だろうと思っていたのだ。 「ふうん、そうなんだ。何かきっかけでもあったのか?」  直樹はビールに視線を落としたまま聞いたが、彰から返事がないので顔を上げた。彰はいつになく真面目な顔をしてジョッキを握り締めている。 「……実はさ、こないだ親戚で集まる機会があったんだけど、そこで叔父さんから話聞いて。その人、新卒から20年間ずっと同じ会社に勤めてたんだけど、急にリストラされたんだってさ。会社の業績が悪くて、人員削減しなきゃいけないからって」 「そうなのか? 何て言うか……大変だな」 「そうなんだよ。叔父さん、俺と同じ営業職なんだけど、あんまり成績はよくなかったみたいでさ。それでも家族を養ってかなきゃいけないから叔父さんなりに頑張ってたらしいんだよ。   でも、結局今回リストラに遭っちまって、これからどうしたらいいんだって途方に暮れててさ。なんか、そういう話聞いてるとさ。他人事じゃないなって思って。俺も会社にぶら下がるんじゃなくて、もうちょっと自分のこと真剣に考えなきゃいけないなって思って……」 「そうだったのか……」  思いがけず深刻な話になり、直樹は気まずさを払拭するようにビールを口に運んだ。確かに、身内がそんな目に遭ったら危機感も出てくるだろう。大企業でも潰れるこの時代、会社がいつまでも自分を守ってくれるわけではないのだ。 「で、教採受けるの決めたはいいんだけど、1人だったら心折れちまうんじゃないかって心配でさ。それで山内のこと思い出したんだ」 「俺?」直樹が自分を指差した。 「うん。山内も公務員試験の勉強してたんだろ? 一緒に試験勉強すりゃあ、1人でやるより頑張れるんじゃないかと思ってさ。どう? 公務員試験、もっかい受ける気ない?」 「俺は……」  直樹はとっさに視線を落とした。単なる相談だと思っていたのに、まさか話が自分に飛び火するとは予想していなかった。  どうなのだろう。自分はもう一度挑戦したい気持ちはあるのだろうか。仕事をしながら試験勉強や面接の練習をするなんて考えただけでも大変だ。大した目標もなく、流れるように日々を過ごしてきた自分に、そこまでして夢を叶えたいという気概があるのだろうか。   「……正直なとこ、今まで考えたことなかった」直樹は告白した。「目の前の仕事するだけで精一杯だったし、とりあえず今の生活続けてればいいかなと思ってた」 「まぁそうだよな。俺もちょっと前までそんな感じだったし」彰も頷いた。「でもさ、俺思ったんだ。今の会社で仕事続けたところで、叔父さんみたいになるだけじゃないかって。会社のために必死に頑張ってきたのに、後には何も残らない人生なんて嫌じゃん?  叔父さんも言ってたよ。会社が俺らの人生を肩代わりしてくれるわけじゃない。自分の人生の責任は自分で取らなきゃいけないだって」  彰の言葉は、直樹の胸にずっしりとのしかかってきた。普段はおちゃらけている彰が、今や真剣に自分の将来について考えている。現状を打開し、新しい未来を掴むために行動を起こそうとしている。その姿を目の当たりにすると、直樹は自分1人だけが取り残されているような焦燥感を覚え始めた。 「……不安はないのか?」直樹は尋ねた。「給料減ったり、物凄い激務で身体壊したりする可能性だってあるだろ? そもそも試験に受かるかどうかもわからないし」 「そうだな。不安なら山ほどあるよ」彰があっさり言った。「でもさ、そんなの考えてたらいつまで立っても前に進めねぇし、まずはいっぺんやってみるしかないと思うんだ。上手くいかなかったら、その時また考えればいいかなって」  彰らしいポジティブな考えだ。でも直樹には、自分がそこまで前向きに考えられる自信がなかった。様々な不安が頭を掠め、現状維持が一番楽だという結論に至り、結局何もしないで終わる、ということを今まで繰り返してきた。だから今回も、彰を応援することはあっても、自分が一緒に試験勉強をすることはないだろうと思っていた。  でも――そこでふと、昼間会った2人の新入社員の女の子の姿を直樹は思い出した。社会人生活への期待に胸を膨らませ、顔を輝かせていたあの子達。自分だって、社会人になりたての頃は同じような顔をしていたはずた。桜の木の下を歩いていても、地面にひしめくピンク色の花びらがバージンロードのように思えて、これから始まる未来に否が応でも期待が高まったものだ。  それなのに、今の自分は春が来たことに対する感慨も何もなくて、ただ無気力に毎日を過ごしている。今のまま変わらなければ、この怠惰な日々をこれからも繰り返すだけだ。自分はそんな生活を続けたいと思っているんだろうか? 「転職したらしたで、色んな苦労あるんだろうなってことはわかるよ」  彰が直樹の迷いを読み取ったように言った。 「せっかく今の仕事慣れたとこだし、続けた方が楽だって気持ちも正直ある。  でもさ、例えば10年後20年後に振り返った時に、どっかで後悔するんじゃないかって気持ちがあるんだ。あの時行動してれば、もっと人生充実してたんじゃないかってさ。やるだけやって駄目だったんなら諦めもつくけど、何もしないままズルズル年齢重ねちまったら、きっと後悔すると思うんだよ」  酔いが回っているのか、彰の言葉にはいやに熱がこもっている。まるで本物の熱血教師みたいだ。だが、その言葉には不思議と心動かされるものがあった。  確かにこのままの人生を続けていれば、目先の生活は楽かもしれない。でも、いざ年齢を重ねた時に、本当にその選択を後悔しないと言えるだろうか? 挑戦して未来が変わる可能性はゼロではないのに、やる前から無駄だと諦めて、芽を潰してしまっていいものだろうか?  現状を変える。そんなことは端から出来ないと思っていた。社会人なんて我慢の連続だから、そう思って考えることを放棄して、仕事なんてどれも大変だから、そう思って行動することを諦めていた。でもそれは、ただ人生を引き受けることから逃げていただけかもしれない。 「そうだな……。俺もやってみるか」 気がつくと直樹はそう言っていた。彰がぱっと顔を輝かせる。 「よっしゃ! そう来なくっちゃな! 2人とも合格して、俺らのことバカにしてた奴ら見返してやろうぜ!」  彰は力を込めて頷くと、まるで同士の誓いを交わすかのように直樹の手をがっちりと握った。握った手をぶんぶんと振る彰を直樹は苦笑して見つめながらも、不思議と胸の支えが取れたような気がしていた。
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