まだ見ぬ桜

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まだ見ぬ桜

 それから2時間ほど飲み交わした後、直樹は1人でアパートへの帰り道を歩いていた。すっかり出来上がった彰は店を出た時点ですでに千鳥足で、家まで送ろうとする自分の申し出を頑なに拒否して1人で帰って行った。あんな状態で無事に帰れたのだろうか。明日ちゃんと会社に来れればいいのだが。  ただ、今日の彰はいつになく上機嫌だった。きっと酒のせいだけではないだろう。  不意にポケットに突っ込んだスマートフォンのバイブが鳴る。彰が無事に家に辿り着いたことを知らせて来たのだろうか。  直樹はスマートフォンを取り出した。LINEの新着通知が2件。 『今週末、雨なんだって。桜、散っちゃうかな』  和美からだ。続いてもう一つのメッセージを開く。 『金曜、ちょっとでもいいから見に行かない?』  土日が無理ならせめて金曜日に。そんな和美のいじらしさも、いつもの直樹だったら逆に重荷に感じられただけだろう。でも今は違う。  彰との会話でわかった。自分は今まで、最初から物事を諦めて過ぎていたのだろう。社会人になったことで、自分はもうこれから変わる機会はないのだと思い、極力何も望まずに生きて来ようとした。友達も恋人もいらず、ただ会社にしがみついて、日々を生き長らえることができればそれでいいと思っていた。そうする中で、学生時代に築き上げてきた多くのものを失ってきた。  でもこれからはもう、本当に大切なものを失いたくない。 『わかった。金曜、なるべく早く帰るようにする』    そんなメッセージを送り、直樹はスマホを下ろして顔を上げた。人気のない住宅街、家の軒先から伸びる桜の木。毎日当たり前のように見る光景。毎年当たり前のように訪れるこの光景。  でも本当は、当たり前の未来なんてどこにもないのだろう。花見にはいつでも行ける。そう思って先延ばしにしていたら、その未来は二度と訪れないかもしれない。桜は毎年咲く。でも24歳の春、和美と見る桜は今のこの一度きりだ。  1分もしないうちに再びスマホが揺れる。画面を開くと、和美からのメッセージが表示された。 『やった! あたしも頑張って早く帰るね♪ せっかくだしご飯食べるとこも探しとく(^-^)』  久しぶりに見た絵文字付きのメッセージ。業務連絡のようでないやり取りなんていつ以来だろう。  スマホの画面を閉じ、直樹は再び桜の木を見上げる。月の光を浴びた夜桜。いつもは何気なく通り過ぎるだけのその光景が、今日は何だかとても尊いものに見える。   春が来ても何も変わらないと思っていた。新しい生活に浮かれる人々を尻目に、自分はこのまま同じような日々を繰り返していくんだと思っていた。  でも今は少しだけ、前に進もうという気持ちになっている。何も変わらないかもしれない。上手くいかないかもしれない。でもそうやって最初から諦め続けていたら、自分の中に春が訪れることはない。桜が散るのは早い。でも自分は、散るにはまだあまりにも早すぎる。  来年この桜を見上げる時は、もっと違った気持ちになっているといい。初めて社会人になったあの時のように、もっと明るい気持ちで春を迎えられるといい。それまでにたくさんの壁にぶつかるだろうけど、それでも自分はまだ、人生を諦めたくはない。  いつもより少しだけ明るく思える帰り道を直樹は歩いていく。  風に吹かれて舞い落ちる桜吹雪は、新しい道を歩もうとする彼を祝福しているかのようだった。
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