嵐の中で

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嵐の中で

 僕の名前は遠野悟(とおのさとる)。今年で24歳になる社会人2年生だ。  ただ、今現在の状態でいえば、僕は到底社会人とは呼べない。なぜなら僕は、ここ半年ほど引きこもり生活を送っているからだ。  僕がどうして引きこもりになったのか。それは僕の性格に原因があった。僕はかなり敏感な性格で、誰かと話をしていると、その人の眉の動きや声のトーンから感情を察知し(それはおおむね不快な感情だった)、落ち着かない気持ちになることが多々あった。相手の何気ない一言で感情を大きく乱され、発言の真意を考えて夜眠れなくなることもあった。そんは僕にとって、様々な性格特性を持った人間が集まる社会に出ることは、獰猛な獣の潜む洞窟に丸腰で侵入するような危うさを孕んでいた。  学生時代はまだよかった。クラスの中に何人かは僕と同質の人達がいて、僕は彼らとの関係に居場所を求めることが出来た。人気のない廊下や校舎の裏に集まり、自分達にしかわからない話をする。そんな時間を僕は何よりも愛していた。  だが社会は、僕がそんな風に影の生き方を続けることを許さなかった。  僕の存在は、会社という組織の歯車として組み込まれ、周りと同じように成果を上げることを求められた。同僚が課せられた仕事をすいすいとこなす中、僕は何時間もかけないと仕事を終わらせることが出来なかった。質問しようにも相手の顔色を窺い過ぎてタイミングを逃し、その人が帰る間際になってやっと質問することが多々あった。同僚との間には瞬く間に差がつき、僕は使えない人間として上司から罵られることになった。  そんな日々を繰り返す中で、僕の心は野晒しにされた中古車のように次第に朽ち果てていった。  僕のように影に生きる人種が、過酷な競争社会で人と渡り合っていくことは難しい。だから僕の数少ない友人達はそうした進路を避け、教師や研究者の仕事に居場所を見出していた。  でも、僕には学生時代にその真実を悟れるほどの聡明さがなかった。僕が愛した静謐な世界は青春の記憶と共に去り、後に残ったのは、喧騒と怒号と疲労に満ちた過酷な現実だった。  吹き荒れる嵐の中で、僕の心が小枝のようにぽっきりと折れるのに長い時間はかからなかった。  入社して10か月が経ったある朝、僕は突然布団から起き上がれなくなってしまった。まるで姿の見えない誰かが、起き上がろうとする僕の手足を押さえつけているみたいに。やむなく会社に連絡を入れ、その日は休みを取ることにした。  一晩眠れば治るかと思っていたのに、その翌日も僕は起き上がることが出来なかった。さすがにおかしいと思い、会社に連絡を入れた後、近所にある総合病院に向かうことにした。陰鬱な空気の漂う待合室はいるだけで病気になりそうで、僕は早く帰りたくてたまらなかった。  ようやく名前を呼ばれ、僕は医師の診察を受けた。だが医師は、問診をし、聴診器で僕の身体をひととおり調べ終えたところで、力なく首を振って言ったのだった。 『身体にはどこも問題はありません。もしかすると精神的な原因かもしれませんね。早期に心療内科を受診された方がいいでしょう』  心療内科? 僕が呆けた顔をしていたことに気づいたのだろう。医師はそれがいわゆる精神科だということを教えてくれた。医師が紹介状を書いてくれたので、僕は病院を出たその足で心療内科に向かうことにした。これ以上休んで会社に迷惑をかけるわけにはいかない。  だが、僕のそんな殊勝とも言える心がけは、心療内科を受診した時点であっけなく崩れ去ることになった。  医師は僕に様々な質問をした。僕が回答を重ねるたびに医師は重々しく頷き、手元の問診票に何やら書きつけていった。  そうして質問を終えたところで、医師は苦渋の塊みたいなため息をついて言った。 『うつ病を発症しているようですね。診断書をお書きしますから、半年ほど仕事をお休みされた方がいいでしょう』  余命宣告のようなその言葉に、僕の心はたちまち真っ暗な穴底へと突き落とされた。  うつ病? この僕が? 確かに僕は心が強いとは言えないけれど、だからと言って、半年もの休息を余儀なくされるほどの病気を患っているなんて信じられなかった。  僕はじっと医師の顔を見つめた。表情をふっと緩めて、実は冗談なんですよと言ってくれることを期待して。  でも医師は大真面目な顔で僕を見返しただけだった。きっと同じような人間を何人も見てきたのだろう。沛然(はいぜん)と降りしきる雨の中で身体を濡らしているうちに、自分が精神的に追いつめられていることにすら気づけなかった人達を。
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