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硝子の向こう
『……そのような葛藤があった中、山田さんが引きこもりから脱出するきっかけになった出来事は何だったのでしょうか?』女性キャスターが興味深そうに尋ねた。
『はい。ある日、大学時代の友人から連絡が来たんです。内容は食事の誘いで、友人は私が引きこもりになっていたことを知らないようでした。
ですが……私はその誘いを受けてとても嬉しかったんです。自分はとっくに社会から忘れられたと思っていたのに、彼は今も私のことを覚えていてくれた。ずっと社会と隔絶された生活を送っていたのが、彼から連絡をもらったことで、もう一度社会との繋がりを見出せた気になったんです。
私はその場で彼に連絡し、自分の現状を洗いざらい喋りました。彼は黙って私の話を聞いてくれました。そして私が全てを話し終えた後に、一言だけ言ったんです。辛かったな……と。
それを聞いた時、私は身体が震えそうになりましたよ。5年も引きこもりを続けて、甘えるなって罵倒されてもおかしくなかったのに、彼はただ私のことを労ってくれたんです。おまけに、自分に出来ることがあれば何でも言ってほしいとまで言ってくれて……。
その時私は決意したんです。こんな私に手を差し伸べてくれた彼のためにも、社会復帰をしたい……と』
そう言った山田さんの口調は実に力強いものだった。僕は心臓の鼓動が速まるのを感じながら、一心に山田さんの姿を見つめた。
『まずは外出に慣れることから始めました。最初は人とすれ違うだけでも怖かったですけどね。引きこもりだったことがバレて、何か言われるんじゃないかと思ったんです。
さっき言った友人とも定期的に連絡を取るようになりましてね。いくつか仕事を紹介してもらったんです。採用が決まった時には本当に嬉しかったですね……。ブランクがあるので大変ですが、職場の人が優しい人ばかりなので、何とか今も続けられています』
山田さんがそう言って笑った(と思うが、やはりモザイク越しなのでわからない)。女性キャスターはすっかり聞き入った様子で、目にうっすらと涙を浮かべている。
『ご友人の存在に支えられて、山田さんは社会復帰を果たされたわけですね……。まだまだお話を伺いたいところですが、時間が迫ってきていますので、最後の質問に移りたいと思います。
この番組をご覧になっている方の中には、実際に引きこもりの状態にある方もいらっしゃるかと思いますが、山田さんはそうした方々にどんなメッセージを送りたいですか?』
僕は思わず居住まいを正した。山田さんは首を傾げて少し考えた後、カメラの方に向き直って言った。
『そうですね……。引きこもりの皆さんは、多かれ少なかれ、今の自分の状況に不安を感じているんだと思います。
ただ、いざ戻ろうとするとそれはそれで不安になりますよね。また同じ目に遭うのは怖いし、今の快適な環境を手放したくない……。その気持ちはよくわかります。私もそんなこんなで5年も過ごしてきたわけですからね。
でも……ここでは敢えて言います。皆さん、引きこもり生活を続けていても、何もいいことはありません。皆さんが今感じている幸せは、本当の意味での幸福ではないんです』
僕ははっと息を飲み込んだ。山田さんの熱弁は続いている。
『私は外出するようになって、初めて外の世界の素晴らしさに気づきました。昼と夜で姿を変える街並み、季節の移ろい……。いずれも家の中にいては気づけなかったことばかりです。暖かい太陽の光を浴び、澄み渡った空を眺めているだけでも人間は幸福になれる。私は引きこもりから脱したことでそれを学びました。
それに人との繋がりもある。人間関係にはストレスを感じることも多いですか、同時に素晴らしい経験をすることもある。私の友人がいい例ですね。
私が引きこもりになったのは、前の会社の人間関係が冷淡だったからですが、その経験があったからこそ、今こうして人の暖かみを身に染みて感じていられる。社会に戻って苦労したことももちろんありましたが、それでも私は、引きこもりから脱して本当によかったと思っています。だから皆さんも外に出て、世界がもっと広くて優しいものであることを知ってほしいんです』
『山田さん、ありがとうございました。山田さんのメッセージが、1人でも多くの方に届くことを願っています』
女性キャスターがそう言って頭を下げた。山田さんも同時に頭を下げる。モザイクは最後までかかったままだったが、彼がとても晴れやかな顔をしていることは想像がついた。
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