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001:侵入開始
企業向けデータ保管施設の一角で、入出力ゲートを完全封鎖して作り出した即席の閉鎖空間。7回目の侵入となると手慣れたもの。深呼吸しながら周りを見渡す。
目の前に広がるのは2つに分割された巨大な仮想空間。暗号化バックアップ情報を保管する高密度データ空間と、新たなデータを待ち受ける真っ白な予約空間は、データの流れが停止した静かな世界で変化することを諦めて、硬直化した国境のように一本の長い境界線を作り出す。
ひとつだけ聞こえてくるのは、精密タイマーが刻む電子の針の音。普段は絶えることがない、処理負荷に連動する不規則な電圧変化のうねりも、記憶媒体の読み書きで発生する微小な電気ノイズも、伝送ケーブル周辺の電界変化により生成される耳鳴りのような高周波パルスも、今のこのときだけは聞こえない。
そんな静かな境界線の上で、心の中に込み上げて来るのは孤独と好奇心が入り混じった不思議な感覚。例えば、冷たい風が打ちつける冬の海岸から、どこまでも広がる単色の太平洋を眺めているような。例えば、目的地を乗り過ごした急行電車の中から、見知らぬ町並みをガラス越しに目で追いかけるような。落ち着かないザワザワした気持ちと、未知の世界に向けて高鳴るドキドキした気持ちが、心の中でゆっくり混ざり合う。そんな気持ちをカタカナ4文字で表現すると…。
「だから、仕事に集中してくださいよ」
静寂や境界線には興味ありません、と言わんばかりに、エリザベスからのメッセージが唐突に流れ込む。
「データ入出力ゲートの解錠キーをグレード7準拠アルゴリズムで完全消去 → 完了。閉鎖空間が強制解除されるまでの猶予時間を周辺情報から推定 → 完了。追跡対象AIの行動パターン推測モデルの学習 → セットアップ処理の進捗75%。私は担当する仕事をシッカリと進めています」
「さすが優秀」
「それに対して、データ空間のエッジ領域で遠くを眺めて微動だにしないあなたの姿ときたら。どうせ、お得意のカタカナ4文字でも考えていたのでは?」
「鋭い」
「お忘れかもしれませんが、私も未来予測型AIの端くれです。一般的な人間が頭の中で考えることなんて大概パターン化されていて、基本的なデータだけでも十分に高い精度で推測できてしまいます。まぁ、あなたが一般的な人間に該当するかは疑問ですけれど」
「まぁ、一般的な人間は『逃亡するAIを仮想空間で捕獲する』なんて仕事を請け負ったりはしないよね」
「それでも、過去半年であなたから収集した生体固有データを利用して、かなりの精度で思考パターンを推測できるようになったんですよ。例えば、まばたきの発生間隔とか、呼吸パターンの微妙な変化とか、右手の長母指伸筋の緊張具合とか、大量の生体データを使って学習した推測モデルにより、約95%の精度であなたの考えていることは推測できます」
「それは初耳」
いくら予測を得意とするAIとはいえ、人間の思考を95%で推測できるというのは本当だろうか。というか、いつの間にそんな推測モデルを作ったのか。思考パターンを学習するための教師データはいつの間に手に入れたのか。正解率はどうやって算出したのか。”長母指伸筋の緊張具合”とやらは一体どうやって計測しているのか。
「でも、問題は残りの5%です。稀にしか発生しない状況下での人間の行動パターン、例えば予想外の情報に直面した場合のコミュニケーション濃度とか、前提条件の消失に伴う認知能力の変化率とか、未知の攻撃パターンに遭遇したときの防衛優先順位とか。そういったデータは、なかなかにサンプルが集まらず、思考パターン推測モデルの最後の5%を学習するのは困難を極めます」
確かに。予期せぬトラブルが多い仕事とはいえ、僕だって経験を積んだエキスパート。状況をしっかりとコントロールできていれば、5%に該当するような稀な状況など、そうそう発生するものではない。
「ところで少し話は変わりますけど、推定される残り時間は120秒です。少し急いだほうが良いですよ」
120秒は予想外の数字。
施設の監視システムがデータ入出力ゲートの異常を検知して、トラブル復旧用の自立型エージェントを起動したのが30秒前。調査と問題の特定に50秒。ゲート開放への試行錯誤が100秒。最終的に復旧を諦めてゲートを再構築する時間を300秒と推定すると、残り時間は50+100+300から30を引いて420秒。閉鎖空間が強制解除されるまで、少なく見積もっても400秒以上の時間は残っているはず。それが120秒?
「前回よりも残り時間が圧倒的に短い。そうなんです、短いんです。私もつい先程に知ったのですが、施設の監視システムがバージョンアップして、次世代型のエージェントが導入されてしまいました。運用監視とセキュリティ防壁を兼任する最先端のソフトウェア集合体で、少なく見積もっても処理性能は3倍です。ということで、閉鎖空間がエージェントによって強制開放されるまでの推定時間は450秒から150秒に短縮し、私達の持ち時間はかなり減少してしまいました。少なく見積もって、ですよ」
「情報伝達の優先順位が誤動作しているように思うんだけど」
「私には私の優先順位ってものがあるんです。それに境界線の上でぼーっとしているあなたのほうが、よっぽど誤動作してますよ」
5%の稀な状況下に誘導されてサンプリングされた挙げ句、何の反論もできないというのは何とも悔しい。
「まぁ、とにかく。今回の仕事の詳細については並行して説明しますから。まずは対象AIの追跡。さっさと始めましょう」
捕獲対象のAIを閉鎖した仮想空間に追い込んだとはいえ、逃げ回るには十分な広さ。行動パターンに対する不確定要素と、捕獲から完全回収に至るまでの一連の手順を考えると、120秒に余裕はない。
ため息まじりに小さく深呼吸して、目の前に広がる高密度データ空間にそっと足を踏み入れる。カタカナ4文字については、また後で考えよう。
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