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003:蜘蛛の巣
データの隙間を駆け抜けながら、捕獲対象AIの背中を追いかけ続けて40秒。移動距離はちょうど128ブロック。残りの作業を考えると追跡に使える時間はこの辺りが限界か。
「行動パターン推測モデルの進捗状況は?」
「モデル精度は85%。学習効率は鈍化して頭打ち。このまま捕獲対象AIに対するデータ収集を継続しても、精度が大きく向上する可能性は低そうです」
追跡中に収集した様々な情報から、捕獲対象AIの思考ルールと行動パターンはおおよそ把握できた。例えば、限られた選択肢の中から最適解を選ぼうとする移動パターンは、突発的な状況変化への対応が遅れるという形で思考ルールの未熟さを感じさせる。また、行動結果をランダムに撹乱したいという意思が、逆に推測可能な行動パターンを生成していることにも気付けていない様子。分かりやすいのが第3829エリアと第7417エリアの時系列データ積層区分の移動。第3829エリアでは移動コストを最小化した結果として左旋回ルートによる移動が増加したことに対応して、同じ積層区分である第7417エリアではバランスを取るかのように右旋回ルートの選択確率が増加している。
「通過確率が高いルートを算出してシミュレーションすると、手持ちのトラップをフル配置した場合の捕獲確率は平均72%。推定残り時間は74秒。判断が必要なタイミングですね」
正規分布の釣鐘状グラフを生成することがランダムであると錯覚し、左右両端のエッジケースに対する反応も不十分。収集した情報は捕獲対象AIの性能が低いことを示している。少し気になるのは、追跡中に対象を見失いそうになる場面が何度か発生したことだが、イベント履歴機能の処理遅延が原因である可能性が高く、性能評価への影響からは除外できる。総合的に考えると、今回の仕事に設定されたC+という低い難易度は正しい。となれば、いつも通りの作戦で。
「第4351エリアを中心に半径3ブロックの範囲でトラップ設置を始める。エリザベスは対象AIの行動パターンを先読みしながら、当該エリアに誘導する形で追跡を継続。目標は15秒後に隣接する第4352エリアで合流と待機開始」
「了解しました」という短いメッセージと同時に、エリザベスは物凄いスピードで単独追跡を始める。まるで人間の世話から開放され、本来の力を発揮できる喜びを目一杯にアピールしているかのよう。
さて、ここからはサポート無しの一人で作業。まずはトラップ設置パターンをざっくり検討。エリア内の構造形状と既存データ配置、AIの推定行動パターンと所持能力、残り時間と成功確率、そしてトラップ消費量と対費用効果。全ての条件を考慮した上で最適なトラップ配置方法を算出するなんてAIみたいな真似はできないけれど、ヒューリスティックという名の過去の経験と知識を活用して、利益とリスクのバランスを調整した設置パターンを考えながら移動を続ける。
第4351エリアに到着するまでに出した結論は、安価な入出力反転型ジャミング装置を空間内に多重配置して、要所に環境寄生型の動作拘束トラップを仕掛ける作戦。大量のジャミング装置で捕獲対象AIの行動を混乱させて、最後は拘束トラップで仕留めるという、物量に物を言わせた創造性の欠片もなく手垢の付いたシンプルな方法だけれど、生身の人間が短時間で考えられるのはこの程度。
配置パターンが決まれば、後はひたすら手を動かし続ける。独立動作するジャミング装置を手慣れた手つきで流れるように設置する。他方、動作拘束トラップは少し注意が必要。周辺の計算リソースを利用して動作する環境寄生型トラップは、中央処理装置への接続作業が必須。さらに、撤退時の証拠隠滅を考慮すると接続には手のかかる手法が求められ手間は大きい。だが、入出力ゲートが閉鎖され処理対象データが入手できない今の状況では施設の稼働負荷はゼロに等しく、逆にトラップが利用できる中央処理装置の計算リソースは膨大な量となる。計算リソースに比例してトラップ性能が上昇することを考えると、まさに現在の状況にうってつけの手段。
「あー、そういう配置ですか」
全体の7割まで作業が進んだところで、エリザベスからのメッセージ。予想はしていた。
「確かに、過去に多数の成功実績のあるトラップ配置パターン、悪くはありません。でも、どうでしょう。例えば第4351エリアのデータ構造が微小区間分割タイプである点を重視すれば、ジャミング装置は境界侵略型を利用するという方法も選択肢として有力です。区間サイズの平均が88.17、容積利用率が46.32%という特徴を利用して、アルベルト3型ジャミング装置をランダムかつ発動確率積分値が均等になるように空間内に配置すれば、入出力反転型に比べて対費用効果を14%改善できます」
「エリア内の3万以上の区分に対して、経路移動確率と機能発動半径を個別に積分計算しながら装置を無駄なく疑似ランダムに配置するなんて、人間には無理だよ」
「なるほど…。ちなみに、捕獲対象AIの追跡は、移動ルートをループ化した状態で安定化。第4351エリアへの誘導は、追跡ダミー義体を展開することで何時でも実行可能です」
「つまり暇だと」
「別案として、差分検出半径の大きい準固定型レーダー探知機と自動追跡機能を搭載した流量制御エージェントを組み合わせる方法も考えられます。相互干渉が起こらないレーダー半径と固定位置を個別に調整する必要があり、設定値の計算にはちょっとした工夫が必要です。しかし、最近発表された疑似アニーリング法を応用した最適無干渉半径計算アルゴリズム第38版とその実装ライブラリを活用すれば、許容可能な時間内で90%の確度を持って準最適解を計算できます」
その後も、おおよそ人間単体では実行不可能な別案を半ダースほど聞かされながら、黙々と残り3割の作業を進めてトラップ設置は無事に完了。直後にエリザベスが追跡ダミー義体の展開カウントダウンを開始する。
「5,4,3,2,1,ダミー展開。これより待機地点に向かいます」
カウントダウンの必要性に疑問を感じつつ、同じく待機地点へ向かうと、エリザベスは一足先に到着し、お手製の電子迷彩カーテンを四方に張り巡らせている。優秀が故に、すべての行動には意味があると錯覚しそうになるが、彼女の行動が合理的に説明出来るケースは体感で6割程度。多分カウントダウンには意味はない。
遠隔で設置トラップと追跡ダミー義体の状態を再確認したら、受信機器を除く全ての装備を待機モードでシャットダウンする。装備動作中に発生する微小なデータ走査信号が原因で、あと少しのところで取り逃がす、なんて苦い経験は一度で十分。
「まもなく、待機モードへの移行が完了します」
エリザベスから低いトーンのメッセージが届くと、世界は再び静寂へ。データ空間のすみっこで、構成要素の物陰に隠れて小さく体育座りしながら、トラップ発動通知をじっと待つ。迷彩カーテンが少し暖かく感じる。残り時間は、たぶん57秒。
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