2.ジョン・ニッケルの親切

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 警備兵たちは女を追って来賓に解放されたエリアを抜け、照明の落とされた廊下に走り込んだ。  追手の先頭を行くのは、最初に女を呼び止めた兵士だった。等間隔に並んだ窓から月明かりがさし込み、走る女の姿をストロボのように映し出す。徐々に距離を縮めながら、若い兵士は叫んだ。 「止まれ!」  あと数メートルというところで、女はふいに前かがみになった。ふくらはぎの辺りに手をあてるような仕草を見て、兵士は女が力尽きたのだと思った。捕まえた! と手を伸ばしたが、女は体勢を立て直すとその指先をすり抜け、再び走り出した。  狭い廊下に、ぴしりと妙な音が反響した。  警備兵はその音を訝しむ余裕も無かった。女の走り方は変化していた。ストライドが広く、体全体の動きも大きくなっている。二人の距離は離れ始めた。 「逃げてもむだだ! そっちは行き止まりだぞ!」  背後の仲間が、息も切れ切れに叫ぶ。廊下の突き当りには、大統領のプライベートエリアへと続く扉がある。見かけは木製だが、中には鋼鉄の板が仕込まれており電子錠を用いなければ開けることができない強固なバリケードだ。  制止の声を背に、女は扉に向かって跳躍した。蹴破れるはずがない。警備兵たちは走る足を止めた。だが女が扉に接触する瞬間、月光の中に浮かび上がったその両脚を見て、追手は目を疑った。 「え、あし……」  先頭の若者が言えたのはそこまでだった。  扉に脚から着地した女はバネのように深くかがみ込むと、蓄積したエネルギーを勢いに変えて反対方向に飛び出した。喧嘩ゴマのように回転した女の蹴りが側頭部を直撃し、若い警備兵は壁に激突した。 「ひっ」  そのままの勢いで突っ込んできた女にひるみ、後続の兵士がのけぞる。その脇を、女は脚をしならせて通り過ぎた。  数秒後、廊下の照明が点灯した。狭い廊下に応援がなだれ込み、呆然と立ち尽くす警備兵を取り囲む。 「侵入者はどこだ!」 「に、逃げた……」  かろうじて返事をすると、兵士たちは逃亡者を追って出て行った。少し離れた場所から「中庭だ!」と叫ぶ声が上がる。残った数人のうちの一人が倒れた仲間のそばに膝をつき、容態を確認した。 「頭の骨が折れているかもしれん。奴はどうやってこの怪我を?」  問われた兵士は廊下の端に転がっているブーツを見つめていた。女が履いていた黒いロングブーツが、まるでヘビの抜け殻のように脱ぎ捨てられている。拾い上げて首をかしげる仲間に、警備兵は身震いして言った。 「ただ蹴られたんだ。でもあの女、膝から下が妙な形に……」
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