2.ジョン・ニッケルの親切

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 中庭に出た女は、しばらく走ったところで足を止めた。  高弾性カーボンの板バネからなる義足は走力と跳躍力に優れるが、芝生向きではない。それに勢いをつけて人を蹴ったことで、接地時の感触が微妙に狂っていた。とっさのことで他にがなかったとはいえ、義足を使ったのはまずかった。  女はサテンのジャケットを開いた。内側のちょうど脇の下のあたりに、薄いソール型のスパイクが仕込まれている。取り出して義足の接地面に装着すると、なんとか地面をつかめるようになった。  ユートピアに建つ歴史ある館の例に漏れず、大統領官邸もかつてこの地域を支配していた権力者によって建てられ、その後紛争で放棄された豪邸である。その配置については、古い図面が流出しており詳細が把握できていた(そのためニッケルは、大統領官邸を移設したがっていた)。中庭を取り巻く屋敷林と高い板塀を北に抜ければ、その先はほぼ未開発の原野であり、国境へと続く緩衝地帯となっている。もちろん検問はあるだろうが、逃げ切る余地は十分ある。 「中庭だ!」  振り返ると、軍服姿の男たちがこちらに向かっていた。追手が犬を連れていないことを確認し、彼女は安堵した。体面を保つためかなんなのか、向こうはあくまでも秘密裡に処理するつもりらしい。  だが、追手数名が肩の高さに構えたものに気づくと楽観視は去った。身をひるがえしたとたん、右肩に衝撃が走る。彼女は(ののし)り言葉をつぶやいたが、足は止めなかった。その後を追うように、さらに数本の矢が芝生をえぐった。  裂かれた右肩が熱を持ち、痛みはじめる。矢を抜くこともままならず、女は意地と気力で足を動かし続けた。これから板塀を跳躍することを考えると最悪のコンディションだ。 ――それでもやるしかない。  彼女は屋敷林に飛び込んだ。  板塀には数カ所にゲートが設けられており、セキュリティキーを持っていれば出入りができる。だがキーを使えば記録が残り、その記録は軍にも公開されている。軍人嫌いのニッケルは別の手で侵入することにした。  周りに誰もいないことを確認して屈みこみ、板塀の一部を両手で押す。するとその部分がすっぽり抜けて、運動不足の中年男がかろうじて通り抜けられるくらいの隙間ができた。ヴォーンにも内緒で作った『兎穴』である。  ニッケルは隙間に潜り込んだ。罠にかかってもがくイノシシを連想しながら、身をよじって通り抜ける。ようやく立ち上がって見れば、晩餐会用に選んだスーツは枯れ葉まみれになっていた。あつらえたばかりの革靴も傷だらけになっていることだろう。ニッケルはしかめっ面で枯れ葉を払い落とし、屋敷林の中を進んだ。
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