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3.ジョン・ニッケルの隠蔽
ニッケル兄弟が、体中にヘドロをこびりつかせて帰ってきたのを見て――さらにジョン・ニッケルが素性の知れない女をかくまうと言い出したのを聞いて――イーディスは卒倒するかに思われた。
しかし、運び込まれた女の姿を目にしたとたん、彼女はてきぱきと働き出した。怪我人に小さな寝室をあてがい、男二人を追い出して手ずから介抱する。また夜半過ぎに医師が到着すると、診察にニッケルが立ち会うことを拒否した。
「立派な紳士は、弱っている女性の隙につけこまないものです」
ニッケルは反論したが、冷たいブルーグレーの目に睨まれて引き下がった。その様子を面白そうに眺めていたトマスは、あくびを一つすると自室へ戻って行った。
やがて診察を終えた古なじみの医師は、 部屋の前で待っていたニッケルにクロスボウの矢が入ったプラスチックの袋を渡した。
「外傷の処置は終わりました。ただし、矢には何かしらの毒が塗られていたかもしれない」
「毒だって?」
「容体が安定しているところを見ると麻酔薬か何かのようです。早めに成分検査をした方が良いでしょうがね」
医師はそう言って去った。一人残されたニッケルは、袋の中の矢を睨みつけた。
晩餐会の警備計画はニッケルにも事前に通知されていた。もちろんクロスボウの件もだ。クロスボウってなんだよと思っていたが、毒については聞いた覚えがない。計画を策定した外務省が、恣意的に隠していたということだ。
ニッケルとヴォーンは互いに反目しているので、それ自体は驚くべきことでもなかった。紛争時代、弟ともども『ユートピア解放戦線』に身を寄せていたニッケルは、ヴォーンとも付き合いが長い。情報局を設立してからは共闘して国と大統領を守ってきたが、そのころから性格が間逆の二人だった。ヴォーンはニッケルの個人プレーや目上の者に対する失礼を嫌っている。一方のニッケルも、ヴォーンの大統領に対する盲目的な忠誠心や知的労働を見下す態度を馬鹿らしく思っていた。
国内外の状況が落ち着き始めると、その溝はますます深くなった。ともに頑固な中年と老人になった二人は、今では脆弱な境界線を引いて睨みあっているような状態だ。
今回、その境界線を逸脱したのは自分の方かもしれない。ニッケルは思った。女の正体が何であれ、ユートピアに対して敵対的な行動をしかけていたことは間違いないからだ。
「……しかし、なぜだ?」
ニッケルは一人ごちた。プラスチックの袋を片手にしばらく考え込んだが、月明かりの下で見た女の顔がちらつくばかりで集中できない。気づけば、こびりついたヘドロのせいで体のあちこちがかゆくなっていた。ニッケルは考えることを放棄して、バスルームに向かった。
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