4.ジョン・ニッケルの人事

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4.ジョン・ニッケルの人事

 ニッケルを乗せたセダンは官邸前の坂を下り、建国記念公園の前で左折して自宅に向かった。車が大学通りにさしかかったとき、運転手のフィリップが声を上げた。 「ミスター・ジョン、あれはなんでしょう?」  反対車線側の歩道を、数十人の男女が集団になって歩いている。それぞれが横断幕やプラカードを抱えていた。 「速度を落としてくれ」  ウインドウを下げると、彼らの声が飛び込んできた。「正当な選挙を!」と一人が叫び、他の全員が繰り返す。暴力性はないようだが、一行の向かう先を見てニッケルは顔をしかめた。 「大統領官邸に行くつもりでしょうか?」  フィリップも同じ懸念を持ったらしい。ニッケルは端末を取り出して電話をかけた。 『どうかした?』トマスがのんきな声で応えた。 「トマス、至急警察官を集めて大統領官邸に送れ」 『何だって? いったい……』  質問を遮ってニッケルは続けた。 「デモ行進をしている連中が官邸に向かっている。官邸は昨日の今日で、警備の軍人が増量中だ。奴らピリピリしているからな、万が一にも国民に手を挙げるようなことがあれば外聞が悪い! 何か起こる前に事態を収拾しろ」  言いたいことだけ言って、ニッケルは通話を切った。こういう時のためにトマスには警察に籍を置かせている。とはいえ国軍の存在感が強いユートピアで、自警団に毛の生えたような警察組織にできることはごく限られているのが実情だ。 「トマスさんは大丈夫でしょうか?」 「なんとかするだろ」  バックミラー越しに返答し、ニッケルは車のシートに深く沈みこんだ。 「もういい、スピードを上げてくれ」  車が自邸に到着しても、ニッケルは先ほど遭遇したデモについて考えていた。そのため、ロビーで待っていたイーディスには気づかなかった。  しかめっ面で目の前を通り過ぎるニッケルに、彼女は声をかけた。 「意識が戻りましたよ」 「ああ、そうか」生返事をしたニッケルは、一瞬後に勢いよく振り返った。 「何だって?」  イーディスは冷ややかな目つきでニッケルを見返した。 「話をするのは結構ですが、お手柔らかに。彼女はいわば捕虜なのですから」  とっさに口ごもったニッケルに、イーディスはだめ押しした。 「ジュネーブ条約を守ってくださいね」 「……とりあえず、話を聞かせてもらうとしよう」  ニッケルはやっとそう言った。 「私も参ります。ついでに、これを持ってください」  イーディスはニッケルに替えのシーツと羽根布団、枕二つを押し付けた。自分では銀のトレイに載せたティーセットを抱え持つ。ニッケルは枕の間から顔を出した。 「それは駄目だ。熱湯は武器として使われるおそれがある」 「……」  イーディスはニッケルに軽蔑の眼差しを向けたが、そばのテーブルにトレイを置いて歩き出した。ニッケルは覚束ない足取りでイーディスの後に続いた。
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