2.ジョン・ニッケルの親切

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「失礼、マム。招待状をお持ちですか?」  玄関ホールで警備兵に呼び止められ、黒いドレススーツ姿の女は振り返った。 「何でしょう」  その顔はほとんど無表情だったが、内心、女は舌打ちしていた。  大統領官邸に潜り込み、人混みに紛れてターゲットの観察を始めるまでは順調だった。雲行きが怪しくなったのは、彼女の様子をうかがう男の存在に気づいてからだ。  視線を合わさないように注意しつつ、彼女は相手を盗み見た。中年の小男が、こちらをじろじろ見ながら隣に立つ長身の男と会話している。そのあからさまな様子からして、男は同業者ではないようだった。だが彼女は念のため、男の隙をついて広間を出た。そこで運悪く、巡回中の警備兵に呼び止められたのだ。  彼女のルックスも警備兵の目を引いたのだろう。会場には見る限りアジア系がいなかった上、女性客は揃いも揃って古式ゆかしいローブ・デコルテを着ていた。動きやすさを重視してパンツスーツを選んだ彼女にとって、ユートピアの懐古的なドレスコードは大きな誤算だった。 「招待状を確認させてください」  近づいてきた警備兵に、女は両手の平を広げて見せた。 「すみません、連れの者に預けてしまって」  そう言いながら相手の様子を観察する。若い兵士だった。銃も持っていない。物陰に引きずり込んでしまうこともできるが、このまま解放してもらえるならそれに越したことはない。彼女は淡い期待を持ったが、警備兵は招待者リストらしき端末を取り出した。 「では、お名前を教えてください。確認しますので」  女は再び心の中で舌打ちした。今回、会社は彼女の身分を用意していない。そこまでお膳立てができなかったからこその、彼女の派遣でもある。 「トゥ・ゴック・ディエップ」女は出任せの名前を言った。 「え? ……失礼ですが、マム、もう一度お願いできますか?」  若い警備兵の意識が端末に向かうと、女は実力行使するため距離を詰めた。 「どうされましたか?」  そのとき、玄関ホールの方からさらに二人の警備兵が現れた。一対一の状況が一対三になったのを認識した瞬間、女はあっさり計画を放棄した。 「待て!」  状況を理解した警備兵たちが声を上げたときには、女は逃走を開始していた。
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