1.ジョン・ニッケルの奇襲

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1.ジョン・ニッケルの奇襲

 ユートピア共和国情報局局長、ジョン・ニッケルの私用端末(スマホ)から歌劇トゥーランドットの『誰も寝てはならぬ』が爆音で流れ始めたのは、午前二時二十五分のことだった。全盛期のパヴァロッティが歌い上げる傑作アリアは館じゅうの窓ガラスを震わせ、館の外では休んでいたカラスの群れが一斉に飛び立った。  突然の事態に叩き起こされたニッケルは、音の発生源に気づくと飛びついてアラームを解除した。 「あいつめ!」  思わず抱きしめていた枕を放り出し、ベッドを下りる。バスルームで手早く髭をあたって髪をとかし、クローゼットから仕立ての良いスーツを出して着替えると姿見の前に立った。鏡の中で、目つきの悪い中年男がこちらを睨んでいる。全身を検分したニッケルは、ネクタイを整えて部屋を出た。  玄関前の車寄せには濃緑色のセダンが待機している。館から出てきたニッケルを見て、車体の後部に寄りかかっていたブロンドの若者がはつらつとした笑みを浮かべた。 「おはようございます、ミスター・ジョン」 「おはようフィリップ」  ニッケルはしかめっ面のまま、フィリップが開けたドアから後部座席に乗り込んだ。フィリップはそのまま運転席に回り込む。 「やあ、遅かったね」  助手席に座っていた弟のトマス・ニッケルが振り返った。 「遅かった、だと? ひとのアラームを五分早めたくせによく言う。しかもボリュームをいじりやがったな!」 「やだなあ、親切心さ。朝三時にミーティングを設定したのは兄貴だぜ」  その間にフィリップはエンジンをかけ、セダンは未明の闇の中に滑り出た。ひとしきり言い合うと、トマスはタブレットを出して使い始めた。 「何か面白いニュースでもあるか?」 「まあね。女優のケイトリン・ペイトンがイスラエルの実業家と入籍したらしい」 「入籍? 彼女が?」ニッケルはぎょっとした。 「だが……先月会ったときは、そんなことは何も言ってなかったぞ」 「それって、もうひと月も連絡をとってないってこと?」  問われたニッケルは黙り込み、トマスは同情的な目つきで兄を見た。 「どうせ彼女、何人か同時進行してたんだろう。恋多き女性だからな。報復するかい?」 「報復だと? バカな! 彼女とおれはまだ何も、いやとかじゃないが、とにかく、何でもなかった。……それに、彼女はおれには若すぎたしな。だろ?」  珍しく語気の弱い兄に、トマスはニヤニヤ笑いを浮かべてみせた。 「それがそうでもないんだ。情報局有志によると、彼女、八歳もサバを読んでたらしい」  ニッケルは片方の眉を吊り上げた。だがそれ以上は何も言わず、窓の外に視線をやった。
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