始まる変化

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 智穂のマンションに着いた蓮は、エントランスで少し悩んだ後、智穂の部屋番号をプッシュした。  呼び出し音が鳴る……。しかし、反応は無い。  ――本当に彼氏ができていたらどうする?  無反応の間が、蓮の頭に考えを巡らせる時間を与える。  ――それでも、連絡くらいはあるはず。置いてある少しの着替えを、そのままにはしておけないはずだから。彼氏が部屋に来た時に、男物の着替えがあってはあらぬ誤解を生み、上手くいくものも上手くいかなくなる。  ――例え俺たちが恋人同士ではなく、傷を舐め合う負け犬同士の関係だとしても。  蓮が逡巡している間も、インターフォンから返事は無く、オートロックの扉が開く気配も無い。  出かけているのかもしれない。  鞄に手が伸びる。  取り出したのは一本の鍵。キーケースに収められていた、蓮のマンションとは違う鍵。  智穂の部屋の鍵だった。「あった方が便利でしょ?」と言って渡された合鍵だった。  ――無事を確認するだけ。恋人でも友達とも言えない関係でも、やはり心配だ。  何度も自身の心に語り掛けながら、合鍵を差し込んで捻った。  オートロックの扉が、蓮を迎え入れるように開く。  エレベーターに乗り込むと、慣れた手つきで智穂の部屋がある階のボタンを押した。  もし倒れていたら? もし事件だったら?  警察、救急車……。  内ポケットに入れたスマートフォンを、コートの上から軽く触る。  万が一、本当に彼氏ができていて、踏み込んだ時がちょうどイチャイチャタイムだったら? 「……まあ、その時はその時で」  覚悟を決め、合鍵で部屋のドアを開けた。  ゆっくりとドアを開き、チェーンロックがかかっていないことを確認する。  後ろめたいことをしている訳ではないはずなのに、自然と音を立てないようゆっくりとした動きになる。  念のため、玄関に置かれている靴を確認する。  見覚えのある智穂の靴があるだけで、男物や来客らしき靴は無かった。 「……智穂―?」  蓮が小声で部屋主の名前を呼ぶ。――返事は無い。 「あがるぞー?」  廊下もリビングもライトはついていない。  しかし、一か所だけ光が漏れる部屋があった。  あの部屋は確か……。  蓮は、その部屋を知っている。  何に使う部屋なのか。智穂にとってどれだけ大切な部屋なのか。  何をしているかは分かった。あとはそこに踏み込むことができるかどうか。 「……」  蓮は迷うことなくその部屋に近づき、扉を開けた。  ――その部屋の中に智穂はいた。  背中を部屋の入口に立つ蓮の方へ向けた状態で、机に向かって一心不乱にパソコンのキーボードを打ち続けている。扉を開けた蓮にも気付かない。凄まじい集中力が雑音をシャットアウトしていた。  要するに智穂は仕事中だった。  恋愛小説家、兎国院(とこくいん)有里朱(ありす)として。  とはいえ、蓮はこのまま帰る気にもなれなかった。  連絡が途切れていたことや、散らかった部屋等から察するに、智穂はこの数日執筆漬けだったことが想像できた。  邪魔をするのも悪いかな、と思いつつ放ってはおけない。 「智穂」  優しく声をかける。  すると今回は智穂の耳にも届いたようで、ビクッと体を震わせて椅子ごと振り返った。 「えっ、蓮!?」  そしてそのまま勢い余って、床に投げ出された。 「あいたっ!」 「お、おい大丈夫か?」  慌てて駆け寄り、抱きかかえるようにして椅子に座らせる。 「びっ……くりした~! 何で蓮がここに?」 「何でって……」  少し言葉に詰まり、蓮が頬を僅かに紅潮させる。 「二、三日連絡が取れなかったから心配になって――」 「え、そうだっけ? あれ? 今日何曜日?」  頭の上に『?』マークを浮かべながら、智穂が周りをきょろきょろと見渡す。 「えっと、スマホは……リビングに置いたままか」  智穂は集中するために仕事部屋にスマートフォンを持ち込まないことが多い。今日も持ち込んでおらず、文明の利器は持ち主から離れ、リビングに隔離されていた。 「俺、仕事の邪魔しちゃったかな? ――ごめん」  集中を途切れさせてしまったことを申し訳なく思う。蓮も仕事で資料や報告書の作成等、文章を書くことが多い。その際にどれだけ集中力が必要かを知るが故に。 「ううん、そんなことないよ。熱中しすぎていたから、いい加減休まないといけないし……」 「熱中しすぎって……」  蓮は数日連絡がつかなかったことを思い出す。 「まさか、何日もこんな状態?」 「た、たぶん? 昼も夜もわからない状態だったから、日付もよくわかんなくて……」  蓮は軽い眩暈を覚えた。  売れっ子小説家であるからには、その文章を書く集中力は凄まじいものだと思っていたが、時間の感覚が無くなるほどだとは……。 「ちゃんと寝てるのか?」 「う~ん……」  蓮が智穂の顔を覗き込むと、顔には疲労が滲み、目の下には薄青くクマができていた。 「寝てないかも……。眠たくなったら寝て、起きて原稿書いてって生活で、時計とかあまり見てないから何時間寝てるかとか、今わかんないなぁ……」 「だろうな」  蓮が智穂の座っている椅子の背もたれを持つ。そして机から引きはがすように引っ張った。足にローラーのついている椅子は、何の抵抗もなく智穂を仕事机から遠ざけた。 「え、ちょっと、何!?」 「今日はもう仕事は終わり。作家先生は波に乗ってて絶好調かもしれないけど、傍から見たらボロボロだぞ」 「でも……」 「だーめ」  それでも執筆を続けようとする智穂を、蓮は抱きかかえて持ち上げた。 「わっ」  そのままリビングに移動し、ソファーに智穂を座らせる。 「そこで待ってな。もちろん、仕事せずに」 「何するの?」 「風呂いれてくる。入ったら今日はもう寝ろ」  少し強引だったかな、と思いつつも風呂にお湯を張る。智穂のマンションはリビングからでもお湯張りの操作ができて楽だな、と考えながらキッチンを見ると洗い物が山のように溜まっていた。 「こりゃあひどい……」  恐らく食事以外の時間は殆ど執筆に充てていたのだろう、と想像に難しくなかった。  コートとスーツの上着を脱いだ蓮が、リビングの片づけを始める。 「あ、片づけとかいいよ。原稿終わったら自分でやるから」 「気にすんな。今は休んでろ」 「はぁい……」  有無を言わさない蓮の口調に、黙るしかなかった。  片づけをしているうちに、お湯張りが終わったメロディが流れる。 「ほら、風呂はいったぞ。さっぱりしてきな」 「うん……。蓮、あのね……」 「ど、どうした?」  立ち上がって近くに来た智穂の照れた顔に、思わずドキリ、とする。 「なんか、座って落ち着くとお腹減った……」  気の抜けた回答に、膝から崩れ落ちそうになるのを堪え、ズボンのポケットに入れていたスマートフォンを取り出す。 「……わかった、なんかデリバリー頼んでおくよ。何がいい?」 「天丼……おっきい海老天が乗ってるやつ」 「けっこう食欲あるんだな……」
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