始まる変化

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 カーテン越しでも感じる、柔らかな朝の日差し。  目が覚めた智穂が枕元のスマートフォンを手に取り、時間を表示させると八時過ぎだった。十時間を超える睡眠。智穂にとっては久々の熟睡だった。  体が軽く、頭もすっきりしている。  今日はいい原稿が書けそうだ。  一先ずリビングに行ってコーヒーと、何か適当にお腹に入れよう。確かまだシリアルがあったはずだ。  軽い足取りでリビングに向かう。すると……。  ドアを開けた瞬間、まだ淹れていないはずのコーヒーの香りが智穂の鼻を(くすぐ)った。 「よう、おはよう。先生」  軽いノリの男の声。  智穂が驚いて声の主を探すと、蓮がリビングのソファーに腰掛け、堂々とコーヒーを飲んでいた。 「なんで……いるの?」 「なんでって。昨日片付け頑張ったら、帰るのがめんどくさくなって泊まった」  片付け?   智穂がキッチンに視線を移すと、溢れかえっていた物やゴミが綺麗に片づけられていた。 「蓮がやってくれたの?」 「そうだよ」 「ど、どうして?」  蓮がコーヒーを持ったまま立ち上がる。 「あまりに散らかっていて、コーヒー淹れられる状態じゃなかったから」 「ご、ごめんね。ゴミとか凄かったでしょ?」 「大したことなかった」 「でも……」 「気にすんなよ。原稿で手一杯だったんだろ?」  自身の不甲斐なさ、生活力の無さを見られてしまった気がして、智穂は顔がどんどん熱くなっていた。 「それより、朝ごはん食べるだろ? ――って言っても、トーストだけど」 「えっ、食パンなんて買い置きなかったでしょ?」 「さっき買ってきた。コンビニで」 「行ってきたの!?」  驚きのあまり声量が制御できず、その声の大きさに蓮も驚いて僅かに上半身を仰け反らせた。 「う、うん。毎日インスタントとかシリアルとか食べていたんだろうから、たまには違うもの食べたいかな、と思って」  今度は蓮の気づかい、優しさで頬が赤く染まる。 「……ありがとう」 「顔洗ってきなよ。その間に準備しておいてやるから」 「……うん」  智穂が洗面台で自身の顔を見る。  クマはまだ消えていないが、頬が紅潮している。  智穂を照れさせたのは、紛れもなく蓮だった。  セックスをするだけの関係だった蓮が見せた、ベッドの上以外での気遣い、優しさ。  連日の原稿作業で疲労がピークに達していた智穂にとって、蓮の行為は認識を変えさせるのに十分な効果を持っていた。  そして蓮もまた――。  朝。テーブルを二人で囲み、朝食を摂る。  蓮は智穂が起きる前に食べ終わっていたのでコーヒーだけだが、智穂の目の前には焼き立てのトーストとコーヒーが置いてある。  熱々のうちにバターを塗り、イチゴジャムを塗る。  一口齧ると、智穂の全身から力が抜ける。 「はぁ~……。美味しい。なんか久々にちゃんとした朝ごはん食べたかも」 「……どんだけ食生活荒れてたんだよ」 「しょうがないよ~。追い込み期間中はご飯食べる時間すら惜しいくらいだし」 「でもそんなガチガチに追い込んで、体調崩したら元も子もないだろ」  こつん、と音を立てて蓮が空になったマグカップをテーブルに置いた。 「決めた。俺今日から暫くここに泊まる」 「んくっ……えっ!?」  思わぬ蓮の言葉に、智穂は飲みかけていたコーヒーを吹き出しそうになった。 「な、なんで!?」 「心配だから」  迷いの無い即答だった。 「正直、仕事に集中したいって気持ちはよくわかる。俺も、大量に報告書を作らなくちゃいけない時は、昼食を抜いてでも集中して仕上げたりする。当然作家先生の文章量と比べるのは失礼だと思うけど」  空になったマグカップを持ったまま、蓮は智穂を見つめる。 「智穂が全力で仕事に打ち込めるよう、家事を手伝うよ」  思わぬ申し出に、トーストを持っていた手がピタリと止まった。 「なんでそこまで……」 「なんでだろうな。美味そうにトースト食べてる智穂の顔見てたら、そうしたいって思った」 「……」  それ以上智穂は何も言うことができず、無言で残りのトーストを食べ続けた。 「智穂はこの後原稿の続き?」 「えっ、ああ、うん。そう」  トーストを食べ終え、ミルクと砂糖を入れたコーヒーを飲んでいた智穂は、不意の質問に思わず間の抜けた声が出た。 「じゃあ俺は買い出しとかしてくる」 「買い出し、とかって?」 「しばらく泊まるから、着替えとか。必要なものを揃えてくる」  蓮がスマートフォンを取り出し、メモアプリに買い出し品目を入力していく。 「智穂も何か要るモノがあれば、ついでに買ってくるけど?」  スマートフォンに落としていた視線が上がる。 「特に無いかな……」 「そう? ならいいけど。もし俺が買い出し途中で思い出したら電話して。可能なら買って帰るから」 「うん、わかった」 「よし、じゃあ洗い物したら出かけてくる」  蓮は立ち上がると、空いた智穂の皿を持ち上げた。 「い、いいよ。自分の使った食器くらい、自分で洗う」  宙に浮いた皿を取り返そうと手を伸ばすも、既に智穂の手は届かない。蓮が智穂の手を避けるように、キッチンのシンクへと足早に運ぶ。 「先生は原稿のことだけ考えていればいいから」 「でも……」 「素直に俺の優しさに、甘えなよ。尤も洗い物をしてくれるのは食洗器さんだけど」  キザっぽく蓮が笑う。  そこまで言われたら、黙って従うしかなかった。  蓮が淹れたコーヒーに再び口をつける。  いつもの豆、いつものコーヒーマシンで淹れたはずの、いつもと同じコーヒー。それなのに今日はなんだか、いつもより美味しい気がした。
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