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全て青と大川からだ……当然である。この携帯には二人の連絡先しか入ってない。
貫志は画面を凝視して固まった。無言で語る着信履歴が貫志の心を鷲掴みして強引に現実へと引き戻す。ちょうどエスカレーターが地上に近付いた。かろうじて転けずに降り立った。
「ハブられてる子初めて見た。アンタ、超絶人見知りなんだね。避けられてんじゃね? 見た目がさ、ジャニーズだから……やべ、笑っちまった、あはは……っ」
貫志は唾を飲み込んだ。
直ぐに帰らなければ……大学に。
迎えに来るのは18時だった。既に三十分近くが過ぎている。どうしよう。余計なことはするなと釘を刺されていたのに。
映画は想像に反して長い上映時間だった。でもそんなの言い訳にならない。構内から出てはいけない、それがルールだったのだ。
「……うわ」
突然、栄二が低く呟いた。
貫志は、何かゾッとする視線を感じて、画面からゆっくり視線を上げた。
「ヤバそうなのいる……何かこっち見てる?」
栄二の声に緊張が孕んでいた。貫志はヒュッと息を吸った。
視線の先に佇むのは青だった。
向かいの建物に寄りかかり、つまらなそうに煙草をふかしている。禁煙区域など知ってか知らずか、紫煙をくゆらせていた。
貫志の手からジンジャーの入ったカップが滑り落ちる。着信履歴の並んだ液晶画面を目にした時とは段違いの悍ましさが肌を襲った。
青は貫志を見つめていた。睨むとも違う。蔑むでもない。無言の視線に射抜かれて、貫志の息はみるみる荒れていった。
あの人は怒っている。背中に汗が噴き出る。あの夜の怒りを思い出した。縄張りを荒らされた青が、貫志を容赦なく叩きのめした夜だ。貫志がこうしていられるのは、あの夜のいい加減な暴力からすんでで耐えただけであり、青の気紛れだった。
そうだ、俺は、ショウヤなのだ。だから自由にしていられる。今、約束を反故にした。普通の大学生なんかじゃなくて、もうこの世にいない人間で、だから人と会うはずもなかったのに、『調子に乗って』映画を見てしまった。
逃げるか? 無理だな。残された栄二がどうなるか。そもそも逃げられるわけがない。深く考えずに流れに身を任せてしまう性格は、あらゆる弊害を引き起こす。青に打ちのめされて、存在を殺されるだけでなく、せっかく生き延びてもなお、失敗するのだ。
青は、貫志がやってくるのを待っている。無性にあらゆる力が失せた。吐き気がする。貫志はかすかにつぶやいた。
「ごめん。用事あるんだった……」
栄二は「ん?」と不思議そうな声を出した。何か言いかけたのを遮って、力なく微笑む。
「今日はありがとう」
「おー……またなー」
ただならぬ様子を察してか、栄二は素直に別れを告げた。
貫志は『またな』とは返さずに、真っ直ぐ青の元へ向かう。
青が煙草の火を消す。携帯灰皿に吸い殻をしまった。
見えない鎖に引っ張られるように重い足取りで辿り着いた時、低い声がした。
「敷地外に出るなっつったよな」
青の顔を見られない。鎖骨のあたりをじっと見つめた。
「来い」
「……はい」
歩き出す青を追った。青の背中は見ているうちに、ぼんやりと二重になってくる。極度の緊張のせいで、自分の頭がおかしくなっているのだと気付いた。
「乗れ」と突き刺すような冷たい声で促され、後部座席に乗り込んだ。ドライバーは稀に見る付き人の一人だ。車が走り出してしばらくしてから、手の震えに気付いた。青は隣に腰を下ろしたが、微塵も表情を変えず咥え煙草で仕事の処理にかかり、貫志に一言も話しかけなかった。
その沈黙が恐れを膨らませた。汗が滝のようにあふれる。額から顎へと伝う。
瞬きを繰り返しているうちに、じきにマンションへ着く。気が遠くなるほど長い道のりのようで、瞬間的な帰路にも思えた。
今から契約の破棄が言いつけられたとして、先はどうなるのだろう。野放しにされるはずがなかった。勝手なことをしてしまったのだ、口封じにでも遭うだろうか。逃げ延びたとして、金も無いし名前も無い。
車が地下駐車場に入って、辺りが暗く染まった。ヘッドライトが闇をくり抜く。その穴を車は潜っていく。
これから先、どうなるか分からない。
けれど――、映画は面白かった。
館内にいた弾んだ表情の観客や、明るい栄二の姿を思い出す。
貫志は、ふと、握りしめていた指を解いた。くたりと力……生命力のようなものが抜けて、背凭れにもたれかかる。鼻の奥がツンとした。その痛みから落ちた何かが、体の深い場所に溶けて、波紋を描いていく。
ふと、思う。
どうして俺はああやって普通に生きられなかったのだろう。
――車が静かに停車した。
言葉も無かった。車を降りる青に従い、その後を追う。エレベーターホールでボタンを押して待っていたのは大川で、貫志の姿を視界に入れると、ホッとしたように表情を崩したが、すぐに引き締めた。「お疲れ様です」とちょうど直角に腰を曲げて見送る。エレベーターには青と貫志二人きりになった。
いよいよ、身体の震えが大きくなっていく。部屋の階に着くが、どうしても足が動かなかった。隅に縮こまる貫志に青が、
「早く降りろ」
苛立ちを伴って一言だけ言い捨てた。
魔法が解かれるというより、呪いに突き動かされたように、足が進んだ。この階にはひとつしか部屋がないので、エレベーターから青の部屋は直結している。
貫志が先を行った。張り詰めた心臓を、鼓動が突き上げるように揺さぶる。頭のてっぺんから爪先まで、ところどころ火が灯るようなピリつき。きっとまた、殴られる。闘うべきなのか……アレと? 下には大川が控えている。逃げたところで行く場所もない……青の関わるヤクザだって黙ってはいないだろう。
八方塞がりだ。貫志は靴を脱ぐために立ち止まる。
後ろから青がやってきた。
風が動く。
冷たい予感がして頸が冷える。ぎゅっと瞼を閉じる。
思い出すのはなぜか、ケーキの甘い香り……。
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