映画

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 ――が、青は通り過ぎるだけだった。  空気の揺らぎが止まった。青は気だるい仕草で頸に掌を当てた。少し歩き、立ち止まり、振り返って、 「来い。お前には話しておくことがある」  表情のせいだろうか。声に威圧感は無かった。  青は、いつもと変わらない無愛想。鋭い目つきをしていた。  しかしその目元がどこか……静かだった。  リビングにはバーのようなカウンターが設置されていて、高い天井にはシーリングファンが回っている。青は椅子に腰掛けると一服した。目線で近寄るよう促される。  「座れ」と指示されたが、とても青の隣に腰を下ろす気にはならない。青も強いるような真似はせず、呆気なく引いた。  青がまた煙草を吸う。ゆっくりと煙を吐き出す。 「――で」  身体だけ横にした青は、足を組んでいた。 「どうだった」  「……え?」思わず腑抜けた声が出る。青は鞄に腕を突っ込んだ。こちらの顔も見ずに、 「あの映画。すげぇ宣伝してたやつ……あんだけ世間が騒いだのに、こっちは結局観てねぇんだよ」  鞄からタブレットを取り出し、カウンターに放る。頬肘をつき、ようやく貫志を見つめてきた。  言葉の出ない貫志に、青はなおも問いかけた。 「観てきたんだろ。さっき」  俯く角度で頷く。こわごわとした貫志に、青は静かに続けた。 「明日明後日で全館終わんじゃね」 「……」 「お前、うまく駆け込んだなぁ……」  カウンターには酒瓶が和洋折衷で並べられている。クロスの上に伏せられたグラスは、三つ、艶やかに磨かれていた。  青はそのうちの一つを取ると、大川が用意したのだろう、アイスバケットから氷をトングで摘んだ。 「結末言えよ」  軽やかな音が響く。グラスの内側で氷が転がる。 「気になるから」 「……いいのかよ」 「いい。ネタバレとか気にしねぇんだよ、俺はさ」  青はふざけて口角を上げた。  しばらくの沈黙の後、貫志は小さくかぶりを振った。 「そうじゃない。俺、勝手に遊んでた」  青がゆっくり瞬きする。表情から笑みが消える。  貫志は堰が切れたように深く息を吐いた。吸って、吐く。苦しい。青は頬肘をついた姿勢で、言葉に詰まる貫志を眺めている。貫志は、唇をギュッと噛んでから、また言葉を吐き出した。 「アンタとの約束破った。外出んなって言われてたのに、勝手に出て、連絡つかないままほっといた」  「ああ」青は真顔のまま頷いた。グラスにブランデーを注いでいる。貫志は必死に言葉を探して、 「外出たら駄目って、分かってたのに、俺……」 「そうだな」  青は軽くグラスを揺らした。煙草を唇に挟み、味わう。  サッと煙を吐いてから、声を柔らげた。 「でも」  青い瞳が貫志を見つめている。 「観たかったんだろ」  青は目元に何か穏やかな感情を滲ませて、まるで貫志を子供のように……歳の離れた弟の悪戯を許すように片頬を歪める。 「どうしても観たかったんなら、しゃあねーよ」  貫志の瞳から涙が溢れた。青はまた煙草を呑んだ。  一度あふれると止まらなかった。青が呆れて、「そんな面白かったのか?」と笑いかけてくる。貫志は手の甲で目元を押さえた。  決壊した涙は止まることを知らない。かろうじて鼻を啜り、頷く。低い声が「そう」と返す。声がやけに優しく、体の奥に届く。  ……怖かった。  青に今度こそ切り捨てられることが。  そうしたらこの先、生きていけない。でも、それ以上に、青を裏切ればこうなると分かっていてなお流れに身を委ねてしまう自分が恐ろしかった。  そして、また違う絶望にも触れた。  どうして流れに委ねて生きてはならないのか。  この生活を始め、ただ明るいだけの世界に触れて、初めて、自分が影の中で孤独にいたことを知った。貫志は、周りの学生たちや栄二とは一線を画した異質の存在でしかない。寂しさや切なさや哀しみ、怒りで抉られた穴の中で、濃い無力に満たされている感覚を喰らった。  それでも……映画は素晴らしかった。  絶望の世界で、打ちひしがれて、それでも立ち向かい、輝く光を手繰り寄せ未来を掴んでいく。笑いながら泣けるような映画だった。どの風景にも、人が生きている。何をしていても音楽の気配を感じる。どこを見たって素晴らしい。遠くまで何かの音がする……夢を追い求める人々の映画は、貫志とは全く異なった世界で、彼らに憧れたわけではないけれど、でも、自分もその世界の片隅に生きていていいのではと思える映画だった。  映画は、素晴らしかったのだ。  こんな想いを知ることができたなら、もうこれでいいとすら思えてしまった。 「まぁ、言葉にできんなら映画じゃねぇよな」  しゃくりあげる貫志を見て、青は独り言みたいにつぶやいた。  まるで、おもしろおかしそうに貫志の姿を眺めていた青だが、ふと視線を落とす。灰皿の底をじっと見つめた。灰を払う仕草と同じリズムで、ゆっくりと 「昔」  声は、いつもと同じか細さ。注意して耳を傾けないと聞き損じてしまう。  青の全ては独り言みたいだ。 「初めて、俺に映画を観せたのは親父だった」 「……京谷の?」  貫志は涙を拭って、辛くも問い返す。青は無表情のまま「そう」と、問わず語りを続けた。 「高校の時に、京谷の連中と派手に喧嘩した。他人のために命賭けたお前とは違って……俺は、俺のために、あいつらと競り合った」  あいつら。京谷組の組員のことか。
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