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「お前とは違って、俺は肚決めていた。あいつらにいわされんのも、警察に弓引くのも承知だった。そのクソガキを拾ったのが親父だ」
大川に、一度だけ聞いたことがある。青は京谷組の元組長と犬猿なのかと。
青が彼を語る空気がいつも重かったからだ。大川は首を傾げたのか振ったのか曖昧な角度で、『そういうものじゃないと思いますよ』と言った。
今、その意味を察する。
あの重さは、絆という鎖の重さだったのだ。
「俺と親父は契約を結んだ。そんで、俺は、部屋住み込みだ……ヤクザと違いねぇ生活だった。あの人は俺を高校だけでなく大学にも通わせたけどな」
青は自嘲的な笑みをした。一瞬だった。
「映画も教養の一環だった。親父の書斎に映画は溢れてた。極道映画やヤクザの落語講談話の多さは笑えたね」
低く、微かな声は変わらないが、今までになく饒舌に語った。煙に過去を溶かすような。
「最近の極道映画は大体落ちぶれて死んでいくよな。現実だって同じだ。いつか奴らが淘汰される日が来る。それだって親父も皆んな、分かってんだよ」
青は僅かに切ない表情をした。
見たことのない顔に、貫志は思わず息を止めた。哀歓の込もる眼差しは、家族を悼むみたいで、目が離せない。
貫志ははっと我にかえって、取り繕うように「今は親父さんと会わないのか」と訊ねた。
すると、青い瞳が暗がりになった。瞬間的な変化ではあったが、青が、悲痛そうに目尻を歪めたのだ。
そのひずみの正体は分からない。小さな、暗い変化の数々が、静かに流れていく。
青は「たまにな」と吐息と共に吐いた。
「今でも呼び出される。俺の会社は、組のフロントだったのを引き継いだだけだ。社員には元組員も混じってる。ヤクザ抜けても、暫くは人間扱いされねぇからよ――……」
青はそこで、グラスの中身を一気に煽った。からんと氷を揺らし、改めて貫志へ姿勢を直す。
貫志は分かりやすく唾を飲み込んだ。青も察してか、おかしそうに目を細める。貫志が泣き止んだタイミングをはかったようだった。
――『お前には話しておくことがある』
青はついさっきそう口にした。声のトーンからして、自分の身の上話は本題ではない。
彼は煙草を灰皿に擦り付けて、火を消した。貫志は唇を引き締めた。
何を言われるか。契約はやはり、破綻になったか。身体に緊張が走った。
しかし――、青は言った。
「お前……、諦め癖あるだろ」
「……え?」
予想と反する言葉。そして理解のできない問い。と胸を衝かれた貫志は数秒固まる。
青の瞳は貫志を射抜いた。心まで見透かされるような視線に思わず狼狽えてしまう。貫志は必死で言葉の意味を解こうとした。
諦め癖?
「諦めてんだよ、お前はいつも。仕方ないとか、そういうものだ、とか。さっきだってそうだ。映画館の前で俺を見て、逃げるだってできたろ。なのに正直に着いてきて……来いっつったら来るし、乗れっつったら乗るし、降りる。俺が死ねっつったら、どうすんだ?」
そこで、青の声が怒気を孕んだ。凄みに気圧されて息が詰まる。翳のかかった威圧的な視線で、また心が雁字搦めになる。
「ほらな」
青はそのままの険しさで言った。
「何もしねぇんだ」
そして、一瞬で殺気を解いた。空間の緊張が一気にほどける。
頭上で回るファンの音が、耳に戻ってきた。
「時間が経てば経つごとに、お前は環境に順応して、諦めてく」
「な、なに……」
「お前は、自分をどうでもいいと思ってるから平気で約束も破んだよ」
青の言葉は貫志の理解が及ばぬものだった。しかし真っ向から否定する気にもなれない。感情が何も湧かなかった。ただ、混乱していた。
諦めている……? そんなわけない、と返せないのは、何かに執着した記憶もないからだ。今、ここに立っているのは、その時々の流れに身を任せ続け、偶然辿り着いただけだった。
「普通の人間は、生きるために約束を死ぬ気で守ろうとする。分かるか? 俺を怒らせようなんてするやつは命知らずだ。それにお前は今、一人じゃ生きられない。だから約束を守るために、普通は、神経を張る。当たり前だろ? 生きるためなんだからよ。なのにお前は……全部どうでもいいと思ってやがる」
死にたくないなら死に物狂いで契約を完遂しようとする。そんな当たり前なことを当たり前のようにできずに、流れに身を任せるだけの貫志の心理を、青は結論づけた。
氷の溶け始めたグラスに、ブランデーを注ぐ。琥珀色の輝きが揺らいでいた。
「お前があん時戦い続けたのは、諦めたくないからじゃねぇだろ」
あん時……新宿の夜のことだ。
青はグラスを左右に振った。
貫志に視線を遣り、横顔だけで笑う。
「そうじゃなかったんだろ」
今日は、見たことのないこの人の表情がいくつも垣間見える。
頼り甲斐のある同志を見つめるような笑顔だった。秘密を分つ共犯者へ親しみを込めるよう。貫志は呆然として、軽く唇を閉じた。青は視線を落とし、ふ、と息を溢す。煙草に火をつけた。重いジッポの音。
「諦めんなよ」
命令だ、と付け足したが、声は仲間を鼓舞するみたいだ。
「死ぬ気で生き残れ」
貫志は深く呼吸した。この部屋に来てようやく、呼吸を取り戻したような気分だった。
生き残る……考えたこともなかった。常に、現在は、流れ着いた結果でしかない。
生き残れ——……青の声が頭の中でぐるぐる渦を巻いて、ああこれは、きっと永く残るのだろう。ふと、考えた。この生活が終わってその先、青と二度と会うことはないはずだ。それでも、何年が経っても、老いて朽ちていっても、今ここで聞いた青の声は残るのではないか。
諦めたくないから戦ったのではない……。
死ぬ気で、生き残る……。
貫志は鼻から大きく息を吸った。肺の底にあたらしい空気が溜まっていく感覚。血が巡って、呼吸が熱くなっていった。
「残り半分だ。我慢すりゃ、金も名前もやる。お前の底なしの図々しさがこじつけた『条件』だ。親父が俺に契約を教えた。俺は反故にするやり方など教わっていない。成し遂げたらさっさと出てって、ダチでも女でも作って映画ぐらい腐るほど観に行け」
貫志は、瞑った瞼に力を入れる。かすかに顔をあげ、「……はい」と頷く。
直後、強引に腕を引かれる。
青の掌が頬に触れた。
硬直すると、その間に、溜まっていた涙を指で拭われていた。
貫志が噛み付いた親指だ。あの時はこの指で頬に血を擦り付けられた。今、まだ傷の残る親指は、貫志の涙を拭った。
「あーあー……お前、ほんとよく泣くね……」
青は困ったように笑った。眉を下げて、可愛がるように目元を撫でてくる。
突然、胸の奥を熱した棘で刺されるような痛みを感じた。
熱がぶわりと広がる。同い年の栄二や、今までに関わった人たちの笑顔を目にした時とはまるで違う感情が貫志を襲った。胸が締め付けられる。青の触れる頬だけ、神経が集中させられて、焼けるように敏感だ。
だが、青は柔らかい表情で口端だけ上げて、すっと身を離した。「泣き虫だな」と適当に言いながらふかす、煙草の匂いが貫志の心を取り巻いていく。苦くなんかない。でも苦しい。貫志の内側の異変を知る由もない青は、タブレットに目を落として作業し始める。
その綺麗な横顔から目が離せない。ふと、青が横目を向けてくる。
バチっと、視線が合った。
また顔の中心に熱の集まる気配がした。貫志はすぐさま踵を返して、自室へ駆け込む。背後の青は本気で不思議そうに「は?」と呟くだけだった。
『は?』
こっちの台詞だ。
一人になって一層熱が上がった。激しく打ち立てる心臓を抑える。目が合っただけでどうしてこんな。なんで。瞼をぎゅっと瞑る。すぐに青の横顔が浮かぶ。視線がこちらに向く。貫志は慌てて目を見開いた。
「……は?」
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