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運転中だろうとヘビースモーカーには関係ない。設置された灰皿にはこんもりと吸い殻が溜まっている。車内に二人きりでいる時は、貫志が進んで灰皿を片付けるようにしている。
青は煙草の煙を吐いてから、とうとうと告げた。
「法学部の若造だろ。三回生だったか」
三回生? 意味は察するが、聞いたことのない単語だった。
「おう……」
「蒼也と同い年だな」
部屋の外に出れば、青は貫志のこともショウヤと呼ぶが、今ここで指しているのは京谷蒼也だ。その名を呼ぶ響きが、滑らかで慣れていたから判別できた。
「栄二、二十一歳だって言ってた」
「そう」
「栄二と、らいん交換したんだ」
「良かったな」
「栄二がさ、『ヤクザに連れてかれてたけど大丈夫だった?』って言ってた」
「……」
「宮本さんのことヤクザだって断定してたぜ、アイツ」
立腹した様子は無かった。話は聞いているみたいだが、表情の変化は一切無い。驚くほどの無反応だった。
「宮本さんと知り合いじゃねぇもんな。それなのにすげぇよな」
「知り合いだったらヤクザだ何だ言わねえだろ」
「栄二って天才じゃね?」
「は?」
声に苛立ちが孕んだ。たった一息の低い声が背筋を撫でる。
「だってさ、宮本さんって刺青さえ無かったらただのイケメンじゃん。栄二はただのイケメンの宮本さんを見て、モデル? とか俳優? とかでもなく、ヤクザだって断定したんだぜ。見る目あんのかも」
絶対に怒ったと覚悟した貫志だが、案外青は冷静で、「ねぇだろ」と冷たく言い放つ。
「ヤクザじゃねぇんだから。外れてんだわ」
「栄二ってキャバクラのスタッフなんだって」
「はぁん……黒服か」
「栄二もさ、バイトたくさんしてるんだって。本当は音楽と大学をやってきたいけど、学費やライブ費用のためにすげぇ働いてんだって。みんな頑張ってんだな」
言いながらも感慨深くなる。誰しも、見た目だけでは気付けない、それぞれの事情があるのだ。
どれだけ明るく見える人でも、恐ろしい人でも、抱えているものがある。
貫志はそれをよく知っているようで、知らなかった。
あの大学に通うキラキラした学生たちにも、深い悲しみややりきれなさと、それに抗う精神があるのだろう。
青が連れて行ったのは、高級中華料理店だった。青は中華が好きなようで、この店は既に二度連れられている。
個室に案内されて例の丸いテーブルを前にした。ひとまずくるくる回していると、そのうち頼んでもいない料理が続々運ばれてきた。
「酒屋だからさ、キャバクラとかにもよく仕入れてたんだよ」
テーブルを埋める料理を食い尽くすのはほぼ貫志だった。青は驚くほど少食だ。既に腹が満たされたのか、珈琲を飲みながら「へぇ」と相槌を打っている。
「黒服のやつらってさ、総じてやばいやつなんだよな」
珈琲のカップを唇につけたまま、青が少しだけ笑った。
「それぞれの方向性でやばいんだよ。すげぇ頭良い奴もいたし、俺くらい底無しの馬鹿もいたよ。とにかく狂ってるやつとかさ。何にせよどいつもこいつも、頭のネジはずれてんの。ちょこーっとだけ外れてたり、完全にイカれてたり」
「ああ」
「でもやっぱ、風紀は聞かなかったな」
青は煙草を唇から離して、「俺はたまに耳にする。そういうのはやばいっつうより、ただの馬鹿だな」と返す。
何百万のペナルティを背負ってまで嬢と関係をもつのは単なる阿呆だ。本気ならばどちらかが辞めればいい。青は素っ気なく言った。ひどく事務的な口調だった。その抑揚のなさは慄くほどだ。
青は、我を忘れるほどの恋の経験が無いのだろうか? まるで役所みたいな口調である。心が無いのか。
と、口にすると、
「……あぁ?」
「あ。声に出ちゃった」
「出ちゃったって範囲じゃねぇよ。だいぶ長文だったろうが」
「ごめんなさい」
青は呆れて息をついた。
当たり前だが、肝心の回答は無しだ。なんだかホッとするような、ムズムズするような……。
例えば、「そんくらい俺にもある」と返されたら……と途中まで考えて、口の中にある麻婆豆腐を一気に飲み込んだ。リアルに想像すると威力が凄まじい。呆気なく動揺し、咽せて咳き込む貫志を、事情の知らない青はぼんやり眺めている。助けろ。
水を流して、胸を落ち着けた。青は「お前……騒がしいな……」と感心しているだけだ。憂う顔も絵になるから嫌になる。嫌になる。
考えるだけで、お腹の底の方が痛くなる。青が経験した我を忘れるほどの恋……「うっ」と貫志は小さく息をついた。慌てて咳き込むふりで誤魔化す。水を流し込む。それでも想像は止まない。
青が真剣な顔をして誰か一人に愛を告げる姿……だんだん、気持ち悪くなってきて、完全に食欲を奪われた。青い顔で箸を置くと、青は平気で、
「なんだ? もう食べねぇのか」
と首を傾げる。
人の気も知らないで呑気なものだ。椅子は異様に背もたれの高いモノで、青はだらしなく寄りかかっている。人前でどうなのかは知り得ないが、青は、特に家だとぐったりしていることも多い。
貫志の方は、一分前まで腐るほど沸いてた食欲が今では無だ。青が「まだ飯残ってっぞ」と視線で促した。
「……休憩する」
「おー。お前、よく食ってたもんな」
「宮本さんが食わねぇからだろ」
青は紫煙を吐いた。無視された。
「大丈夫、少ししたらまた食べる。宮本さんの代わりに俺がやってやる。背中は任せろ」
「無理して食う必要もねぇよ」
「いや、食欲はあんだよ……」
「はぁ?」
「人間の体って不思議だな……」
「……」
貫志はジンジャーエールを口に含んだ。青の恋……考えれば考えるほど吐き気がしてくるが、これほどまでに自分は、宮本青を嫌っていたのか?
試しに青の顔を伺ってみた。貫志の視線に気づいているのか、気づいていて無視しているのか、青は携帯を眺めている。憎たらしいほど綺麗な顔だ。憎たらしいほど……やはり嫌っているんだ。そりゃそうだ。ぼこぼこにされて犯されかけたんだから。腹立ってきたな。この野郎。このクズ野郎! よくも!
「黒服にはろくでもねぇのが多いだろ」
青が突然言った。
貫志は、「うん」と慌てて頷く。やっと盛り上がってきた憎しみがしゅんっと沈む。
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