喧嘩(ステゴロ)

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 これから青が受け持っている店の一つに寄って、部屋に帰る。最近は漫画の読み方を大川に教えてもらっているので、貫志も続きを読みたかった。  契約は残り一週間だ。一週間後、京谷蒼也は帰国し青の元へ、貫志は新しい名前と金と共に青の元から去る。  それまでに漫画は読み切るのか。  観たかった映画は見終わるのか。  もう二度と、青とは会えないのか……。  ふとした瞬間に気になってしまってどうしようもなくなる。  分かっている。貫志は普通に生きていきたかった。朝、目が覚めて、朝食をとって、働きに出る。誰かと挨拶を交わして、笑い合って、夕飯を食べて寝る。血や夜の匂いとは無縁の、真っ当な暮らしを大切にしていきたい。  宮本青なんかと関わっていたら、死んでも『普通』にはなれない。それくらい分かっている。一週間経てば、夢に見た優しい生活を手に入れられるかもしれない。その権利はそもそも、宮本青やこの世界から離れることが大前提だ。  胸躍らせる未来が迫っている。  それなのに何故これ程までに、未来を思うと泣きたくなるのか。 「ショウヤ」  青の声ではっとする。エレベーターが丁度地下駐車場に着いた。 「何してんだ。早く来い」 「あ、うん」  青が先に歩み出した。背中を追いかけると、青は振り向きもせずに、 「お前、戸籍がどうたら言ってたよな」 「どうたらって……言ったよ。宮本さんも用意してくれるって言ってた」 「……」 「おい! 俺ちゃんと聞いてたかんな」 「ん」  青は車の鍵を指でいじっている。ピピッと場違いなほど軽快な音が鳴った。青に続いて助手席に乗り込むが、運転席の男はキーを差し込まない。鞄から何か取り出すのを素直に待っていると、 「ほらよ」  メモ用紙を渡された。  青の筆跡で、苗字と名前のセットが四つほど並んでいる。丁寧な字だがどの名前にも馴染みはない。貫志はひとまず首を傾げ、しかしすぐに意味を察し、目を見開いた。  唇の隙間から声をこぼす。もしかして。 「これって……」 「こん中から選べ」  新しい戸籍は、四つの中から一つだけ選べると告げた。  これは貫志の名前の候補だ。青は約束を裏切らない男だった。この四つからどれかが新しい名前になるのだ。一つを決めたら、別の自分として生きるための膨大な書類を読み込み、完全に暗記し、捨てる。  その瞬間、別の人生が始まる。  いよいよ春崎貫志は過去の人間となるのだ。この上ないリアルが貫志を襲った。これを選べばもう、春崎貫志には戻れない。  でも、どうしてだろう。 「……これが、俺の名前に……」  どうしてだろう。恐れや感傷はなかった。心臓は高鳴るが、これは高揚でしかない。春崎貫志……何から何まで輝かしいようなこの名前を捨てて、何もない名前を手にすることに、何の不安も迷いも無かった。  ただ今この胸に混じる痛みを一つだけ掬い上げるならば、青に対する切なさだった。  青は本当に名前を用意してくれた。とても容易な処理ではない。金だってかかるし危険もある。生半可な仕事ではなかった。  青は約束を破らない。  つまり一週間後、青は確かに解放するのだ。 「なんだよ。不満か?」  推し黙る貫志を名前の候補に悩んでいるのだと解釈したようで眉根を寄せた。貫志は力なく、首を振る。 「……ううん」 「さっさと選べよ」 「いつまでに?」 「一週間内だろ。そりゃな」  一週間内に次の人生を選ぶ……貫志はメモ用紙に目を落とした。  呼吸が乱れた。頭の中はまだ整理し切れてなくて、言いたいことがうまく表せなかった。  まるで助けを求めるみたいに、貫志は呟いた。 「一週間以内に選べなかったら?」  声が、驚くほど頼りなかった。  口にしてから馬鹿げた質問だと後悔するも後の祭りだ。子供じみた口調に自分でも恥ずかしくなる。これでは青が呆れるのも無理はない。  おそるおそる青の反応を待つ。問答無用で「知るか。選べ」と切り捨てられるのを覚悟した。  だが、 「お前、寂しがってんの?」  青はハンドルに肘を立てて横顔だけで笑った。柔らかく目を細めて、「ガキだな……」と呟く。 「……っ」  貫志は唇を噛み締める。 「それとも、今更怖くなったのか?」  甘やかすような雰囲気に触れて心の底が震える。心臓が細い針に刺されたような痛みを覚えた。「極道相手にあんだけ好き勝手したお前がビビってんのか」と茶化すから、貫志はやっとのこと首を振って、 「怖いわけじゃ、ねぇよ……」 「んじゃ、寂しがってんのか」  そんなんじゃない、と反論したかったのに、青が優しげな顔を見せるせいで、口をつぐむしかなくて。下唇をギュッと噛んで、顔を背けた。  俺はガキじゃない。青が思ってるほど子供じゃない。そうやっていつものように噛みつきたかったけど、青は「絆されちまったか? あの狂犬のお前が」と嬉しそうに笑う。  貫志は指を強く握りしめた。  痛い。  青は痛みなど知らないで、穏やかに言う。 「俺に噛み付いてきやがった暴れ馬が、こんな大人しくなるなんて」 「……俺は、犬でも馬でもない」 「そうかよ」  なおもふざけながら「んじゃ、鹿か」と揶揄ってきた。 「一週間内に決めろ。悩むのも無理ねぇけどな」  本当のことを言えば、名前の候補は決めている。メモ用紙を見た瞬間にこれだと決めていた。好きな名前を選ぶのならば、今の貫志から繋がっているものを未来に託したい。  だから名前選びに一週間なんてかからない。今すぐにこれだと指をさせる。  でも……指をさしたくない。 「大川に懐きすぎなんだよ、貫志クンはさ」  示したくない。そうすれば未来へ向かってしまう。  貫志はかろうじて「……ガキ扱いすんな」と絞り出した。  青は、嬉しそうだった。貫志が大川に懐いているから離れ難くなっていると思い込んでいるのだ。青の口調には、弟分の大川や、そして貫志をも可愛がるような気配があった。
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