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青は煙草に火をつけて、煙を長く吐く。白い煙の向こうで、青い瞳が笑った。「懐いてんだろ。今日も朝からよぉ……」とこちらを揶揄ってくる口振りが、何故なのか、これ以上ないほど貫志の胸を締め付ける。
苦しい。
「でもな、次は真っ当に生きろよ」
青はいきなり声を低くして、力強く言った。
真剣味がドッと増した。その横顔を凝視するが、青は手元を見つめている。
視線の先には親指の噛み跡が残っていた。煙草から煙が漂って、空間を柔らかくしていくみたいだ。青は真顔だったけど、それは今の貫志になら、暖かさが滲んでるとわかる範囲のものだった。
青は低く、唸った。
「俺らみてぇのと二度と関わんじゃねぇぞ」
苦しい。
「そんで好きなことしろ。いくらでもやり直せんだから……」
苦しい。
「ま、懐くのも無理はない。大川も大川だろ。あいつ、妙に面倒見いいんだよな。よくわかんねぇけど」
青が口調を軽くする。貫志を安心させるような転換が心を一番締め付ける。
もう、限界だ。
貫志はため息を吐いた。溢れた切なさを誤魔化すため、不平を表す吐息の形に混ぜて、ニッと笑う。
「……グモンだな。面倒見よくなきゃ、宮本さんの世話なんかしてないだろ」
「愚問なんて言葉よく知ってるじゃねぇか?」
「グモンだ」
「テメェ、調子乗んなよ」
「乗ってるつもりはない」
「……お前は初めからイカれたクソガキだった」
「宮本さんは初めから偉そう」
返す刀で言い返せば、青は「この野郎……」と腹立たしそうに舌打ちした。
ハンドルに置かれた手は、初めて会った新宿の夜、貫志を容赦なく叩き潰した手だ。その親指を貫志も、躊躇いなく噛みちぎろうとした。
親指の噛み跡は、一生残るのかもしれない。
貫志は一週間後、青の元を去る。それが契約だからだ。青からしても、貫志がこの街を去ってくれないと不都合だった。大事な大事な京谷蒼也の偽物が、いつまでも自分たちの傍にいたのではかなわない。この契約は貫志という人間の消滅が大前提なのだから、貫志がいては困るのだ。
でも……。
親指の傷は一生残るのだろう。
「……宮本さん」
貫志はぽつりと溢した。勝手に溢れた声に自分でも驚きながら、「あのさ」と続けていた。
煙草を咥えたまま怪訝にこちらを見遣る青を見て、ふと、想像した。
自分がこの人の社会から消えてその先、親指の傷で思い出してくれるだろうか。
珈琲カップを持つ親指や、煙草で一服し、ふと見下ろした先に、貫志を見てくれるだろうか。
誰かに触っても。誰かを抱いても。
親指には傷跡が残るのだから。
「ごめんなさい」
そうであるといい。
一生残る傷になればいい。
青が、「どうした」と静かに言った。貫志は苦しげに吐き出した。
「指、噛んでごめん」
「ごめん」言葉とは裏腹に、もっと傷つければよかったと思った。青の身体に消えない傷をつければよかったと、強烈な後悔を抱く。
青が叩きのめした貫志の体に、傷はもう残っていない。若い肌は治癒して、青の痕跡を消してしまったが、もっと深い場所にこの男が残っている。きっとこの先何年、何十年経っても貫志は青を思い出す。青は『イカれたクソガキ』を次第に忘れて、傷の意味もわからなくなる。
貫志だけに残るのだ。
ならば忘れられないくらい傷つければよかった。どこを見ても、貫志が分かるように。
「なぁ、宮本さん」
それと同時に、どうしても傷付けたくないとも思った。
青に傷なんてつけられない。この男の強さは身をもって知っているし、傷つけられるほど弱くないと最もよくわかっているけれどでも、これからの未来……貫志の見えないこの世界で、青に血を流してほしくなかった。
危ない目に遭って欲しくない、誰にも傷付けられずに、大切にされることを願っている。幸福に生きるために京谷蒼也が必要ならば、早く帰って来てほしい。
それとともに、どうしても彼の帰りを喜べない自分もいる。京谷蒼也が現れれば、貫志は用済みだ。蒼也は青にとって居なくてはならない存在で、蒼也がいればこの人は満たされる。
青を傷つけたい。大切にしたい。蒼也の帰りを願う一方で、彼の帰りが怖くて堪らない。いくつもの相反する感情が貫志の心を掻き乱す。心は揉みくちゃにされて弱まり、
「一週間以内に選ばないと駄目か?」
箍が外れた。
「一週間後、真っ当に生きなきゃ駄目?」
精査も飾りもないありのままの心が一気に溢れ出た。青が驚いたように目を丸くした。
蛍光灯の明かりが青い瞳に光のまま入り込んで、煌めいている。青はふざけないで次の言葉を待ってくれた。突然弱音を吐く貫志に、青自身も動揺しているようだった。
「京谷蒼也が帰ってきたら、俺は消えないと駄目?」
「……貫志?」
名前を呼ばれて目の奥が痛む。痛みは下って、心を制覇する。「どうしても……?」と呟いた声が掠れていた。
貫志は俯いて、瞑る瞼と膝の上の拳に強く力を込めた。もうこれ以上青の顔が見られない。未来のことなんか何一つ分からないけれど、この青い瞳を目にしたら泣いてしまうと確信していた。心は既に氾濫して、切なさが体の中をいくあてもなく彷徨っている。青の顔を見たら涙の形で溢れてしまう。青は『クソガキ』と子供扱いしていたけれど、俺は、確かにそうなのかもしれない。ずっと子供みたいに、不安定で。
青の顔なんて見ないように、上半身を硬らせて必死に耐えた。だがどうしてもお喋りな口だけは制御できない。止めようと思ったのにすんでのところで潜り抜けて、喉を這い上がっていく。
「俺、宮本さんの傍に……」
胸がつかえてとうとう、続かなくなった。
――突然、空気が動いた。
青の香水が鼻を擽る。それから先はスローモーションみたいに時間が流れて、煙までもがゆったりと揺蕩っていた。それでいて一瞬だった。貫志は目を見開き、青の手を受け入れる。
出会った日のように強引に頬を鷲掴みされた。強制的に青へ向けられる。あれほど目が合ったら泣いてしまうと危惧したのに、未来はいつも不確かだ。貫志の涙腺は無傷で、綺麗な青い瞳を見つめていた。青はじっと貫志を凝視した。どれほどの間だったかは分からない。想像つくのは、青が見つめる自分の顔はきっと興奮で赤らんで、瞳は泣き出す寸前に湿っていたこと。
とても人前に見せられたものではない、弱い表情だ。
そして更に空気が動いた。
これにはお喋りな口すら対処できなかった。青は掌で貫志の頬を包むようにして、顔をスッと近付けてきた。いつものように、何を考えているか分からない無表情だ。その青の瞳は、深い炎を宿したように力強かった。
瞳に射抜かれて貫志は微動だにできない。
青だけが時間を手に入れている。
……青の吐息が、唇に触れた。
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