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貫志は硬直し、微かな熱を受け入れた。
――と、同時に着信音が鳴った。
場にそぐわない軽快な機械音が響く。ぴた、と青は動きをやめた。程なくして体を離す。青は運転席の背もたれに寄りかかり、携帯を手にした。
呆気なく着信を受け、「俺だ」と答えながら車を出ていってしまう。
扉が閉まる。鍵をかけられた。完全な静寂が空間を支配する。ポツンと一人残された貫志は、暫くの間放心した後に、
「……え?」
今、何が起きた?
貫志は軽く腕を組んで、はて、と考える。つい今しがたの一連。青に頬を掴まれて、青の顔が近付いてきて……。
唇が触れ合う間際だった。青の吐息がすぐそこだった。貫志はあまりに驚いて硬直していたが、咄嗟に避けようとは、とても考えなかった。
あのまま着信さえ来なければ自分たちは……。
「は⁉︎」
ボッと、首筋に熱が集まる。
「なんで⁉︎」
なんだ、今のは!?
貫志はできる限り声を押し込めながらほぼほぼ悲鳴を上げた。何故。電話が邪魔しなければ、青は貫志にキスしていた。青の吐息の熱が、たった今、貫志の唇に触れていたのだほぼゼロ距離だった何で何で! 全く予備動作が無かったどころか、それ以前に脈略がない。
宮本青がキスをしようとした理由が一つも思い浮かばない。キスって、好きな人にするものじゃないの? もしかして、顔に何かついていて、取ろうとしてくれた? 唇の周りに指を当ててみるがそのような気配はないし、だとしてもあそこまで顔を近づけてくる必要がない。
あれは間違いなく単にキスされそうになっただけだし、むしろあの距離ならキスしたようなものだし、いや、キスしてはいないけれども。したことにしなくていいけど。
いや、何故。
宮本青がキスをしてくる意味が分からない。
なんのために。どうして。は? 何が目的……貫志はどんどこ荒れ狂う心臓を押さえながら、そもそも口付けとは人類にとってどのような意義を有するのか考えている。
これも教育の過程で学習する要項だったのだろうか。学が無くて分からないけれど、何としてでも理由を解明すべきだ。貫志の認識だと、キスは、軽々しい行為ではないはず。
待てよ。貫志はふと別の考えに立った。キスは宮本青にとって軽々しい行為なのでは? もしや『こいつ泣きそうだな。よく分かんねぇけど俺の唇で黙らせるか』程度の認識? 俺様がキスしときゃ泣き止むだろと? 馬鹿か! もっとマシな方法で慰めろ!
貫志は「最低だっ」とひとまず叫んだ。青が帰ってくる様子はないし、車の近くにもいないみたいだ。混乱ゆえの怒りが身体中の血を沸騰させるかと言わんばかりであったが、自分が泣き出しそうになっていた所以、に思考が至ると立ち消えた。
よくよく思い出してみれば、貫志の方も相当、青にとっては意味不明な言動を晒している。自分ではあまりにも必死すぎて己の言葉をよく吟味もできなかったが、後から考えてみるに、要約は『一週間で終わりたくない。青と離れたくない』だ。
流石の貫志も要約くらいできる。自分の言葉の真意くらいわかる。そしてそれが青に伝わっていることだってよく分かるし、もう、無理、気が遠くなりそう。貫志は顔を両手で覆って、「もう駄目だ……」と嘆いた。
俺はもう駄目だ。青の前で「離れたくない」だなんて泣きべそかいたのだ。恥ずかしくて、顔が赤いやら青いやら。
青の行動は正直よく分からない。もしかしたら本当に、貫志が泣き出しそうだったから誤魔化した、とか、泣いている人間を見つけたら女も男も関係なく雰囲気で黙らせようとする天性のモテ男気質なのか。
宮本青なんて、貫志がいくら悩んだところ考え及ばぬ男なのだから無駄だ。
それよりも明確なことがある。
貫志も、さすがに、分かる。
いくら馬鹿でもここまで来たら言い逃れできない。
貫志は頭を抱えた。キスだって何だって、そんなもの今までの人生で幾らでも経験しているのに、たった今のひとときで心臓が打ち壊されそうになる程動揺している原因を、気付いているのだ。
気が狂っていたとは言え……いや、頭が変になっていたからこそ、青に本音を告げてしまった。どうしようもなく本心だったのだ。子供みたいに泣きかけてしまった。縋るようなことを言ってしまった。
それは全部。
「最悪だ……」
初めての恋は叶わないと聞くけれど、マジじゃねーか。
蹲りたい、叫びたい、逃げ出したい。全ての衝動を死に物狂いで押し込めて、「うう……」と忸怩たる思いで唸る。両手で顔を覆い、指の隙間から深いため息をこぼした。
恋なんてしないと思ってた。誰にも強い感情など抱いたことが無かったし、誰かを欲するのもあり得なかった。何に対しても懇願などしない。すぐに諦めはつくタイプだ。
それなのに、青にはこれまでのやり方が通用しない。無理だと分かってるのに青といる未来を望んでしまう。
これが恋なのか。まさか自分が経験するとは思わなかった。誰かに恋するなんて考えもつかなくて、夢物語だと思っていた……そうかこれが恋か。恋なのか。胸が苦しい。つらすぎる。嫌だ。嫌なんだけど……本当に恋? とにかく苦しい。息が苦しくなってきた、これは、恋だ愛だでそんな生半可に誤魔化していい現象なのか。保険の下りる病気だろう。保険証、持ってないけれど……。
恋。
よりにもよって宮本青相手に。
貫志はグッと唇を噛んだ。この野郎、俺。俺よ聞いてるか。お前はどこまで苦労する人生なら気が済むのか。
貫志は泣きたい気持ちになって、すぐ泣いた。涙が目尻に染みる。大人なのでそれ以上の涙は無かったが、鼻水がちょこんと垂れた。すぐ啜る。最悪最悪最悪。初めての恋の相手が宮本青。無理無理無理。この世にいる百戦錬磨の男女たちだって、初めての恋の相手にはもう少しマトモな人間を選ぶはず。蟻が巨像に挑むようなものだ。
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