喧嘩(ステゴロ)

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 約束。契約。それは、京谷蒼也として一ヶ月無事でいること。青は貫志ならできると思って二千万をかけてくれた。そして戸籍まで用意した。  ——貫志を信じているから。  青は男たちの元へ戻って、運転席にいた男を殴り飛ばした。男らがまた猛り始めた。銃声が鳴ってしまったからじきに警察が来るかもしれない。  唾を飲み込んで、一息だけ深く息を吐き捨てる。貫志はハンドルを握って、勢いよく発進した。  組員の一人が隠し持っていた銃口を車に向けてくる。青の右ストレートが顔に入った。青は銃を取り上げて、何か大声で怒鳴る。  青が……、後ろからバットで殴られる姿が見えた。  青は車に撥ねられて頭に怪我をしている。貫志も、アクセルを踏む前から、青に勝ち目はないと覚悟していた。そして青自身も承知だ。その上で『死にやしない』と言ったのだ。文英組は宮本青を痛めつけても、殺すまではしない。殺しは組織にとっても取り返しがつかないし、下手すれば身を滅ぼす。  貫志はとにかく自分の身を守らなければならない。たとえ宮本青が欠損したとしても、それよりも価値のある京谷蒼也を無事のまま本物に返す。  それが役目だ。  そうすれば貫志は新しい人生を手に入れる。  地下駐車場から地上の光が見えた。もうすぐ太陽の下に出る。  貫志はまっすぐ前を見つめた。  ……ずっと光の世界に憧れていた。  背後の地の下、地獄には、血と闇の深い匂い。  どこを目指すべきかなど一目瞭然だった。  貫志は目を見開いている。瞼など閉じない。ただ光を見つめる。それなのに——、あの光景が浮かんだ。  思い出すのは、新宿の夜だ。貫志を組み敷いて、血に濡れた親指を擦り付けてきた青。圧倒的な力に屈して、脱力する貫志の頬に、青は赤で自分の名を刻んだ。  青が頬を撫でてくれた過去は他にもある。涙の跡を優しく拭って、困ったように笑いかけてくれた日だってあった。呆れながら食べかすを取ってくれたことも、真顔で頬をつついてきたことも、いきなり頬を鷲掴まれたこともあったし、そして、同志を送り出すために頬を撫でた。  つい今し方までの記憶にすら幾らでも青の熱はある。それなのに……、一番強烈に残るあの人の手は、どうしても初めて会ったあの夜だった。  溢れんばかりの暴力の素質に満たされた青が、貫志を屈服させるために見下ろしていた。冷たい微笑の奥に、業火よりも恐ろしい青い炎が潜んでいる。貫志は、その炎の片鱗が少し触れただけなのに、震えが止まらなかった。心の底が揺さぶられた。心臓に青の火が移って、血が燃え尽くされそうだった。  震えが、止まらなかったのだ。  ……地上に出て、貫志はハンドルを切った。  Uターンして、アクセルを踏む。貫志は頭にかぶったフードを取り払い、ハンドルを握り直した。男たちの姿が見えた。青がいない。男たちが黒い塊に蹴りを入れていた。貫志は歯の隙間から深く息を吸い込んだ。  長く吐きながら、躊躇いなく男たちの群れに突っ込む。フロントに弾き飛ばされた二人が、七メートル程先まで吹っ飛んだ。  青の横に停車し、扉をちょこっとだけ開く。倒れ込むように外に出た。男たちは怒りで興奮しているのか事態を読み込めず、怒声を上げた。貫志は血で汚れたコンクリートに座り込んで、そのまま血だらけの青を抱きしめた。  朧ながら意識の保っている青に、「これ、俺に貸して。使わないから」と囁く。2丁の拳銃を、渡すものかと握りしめていたのだろう。青の掌に指が食い込んでいた。フっと、魔法が切れたように力が解ける。貫志はそれらを取り上げて懐に仕舞った。青が腹に巻き付けてきた装具から警棒だけ取り出す。  全て流れゆくひとときの、その更に一瞬だった。青を横たえたその手で、コンクリートを強く叩く。勢いのまま組員の元へ弾け飛んだ。若い雄鹿のように床を蹴って、男の真上から肘を振り落とす。  男は白目を剥いて重心を無くした。男が完全に倒れる前に、貫志は次に入る。隣にいた男のシャツを背後から鷲掴むと布が首に食い込んだ。男の目に躊躇いなく警棒を突き刺す。悲鳴をあげて膝を崩した男の鳩尾に、渾身の力で拳を入れる。  男は泡を吹いて崩れた。貫志が戻ってきて三十秒も経っていない。車に突き飛ばされた男が床をズルズルと這い、一人は動かず、完全に意識を失った二体が貫志の足元を飾っている。  あたりは、水を打ったように静まった。オーケストラの演奏が終わった時、会場が息を呑み、一斉に喝采が鳴るように、周囲はしんと沈黙して、それから怒声や悲鳴が上がった。  貫志は息を吐き捨てた。口元が緩む。次の男に目をつけて、右足を強く蹴った。  ——宮本青の傍にいたから忘れていた。  圧倒的で、無敵の宮本。初めて青を前にした時震えたのは、青が強かったからだ。自分よりも強い男だったから心揺さぶられた。彼の威圧で全身が震えてくる。有無を言わさぬその恐れで、封じられていた。  勝てない青の傍にいたから忘れていたのだ。自分の内で燃え滾るこの熱を。破壊の欲望。戦いを求める、鬼の化身。  ——『お前があん時戦い続けたのは、諦めたくないからじゃねぇだろ』  俺たちは同類だ——……まともに生きられるわけがない。青は貫志が内に飼う獣の正体を見抜いていた。だから、同志を慕うように、共犯者へ微笑みかけるように、青は目を細めていたのだ。そう、諦めたくないとか、死にたくないとか、そんなことじゃない。  戦いたかった。それだけを求めていた。貫志は今、初めて自覚する。自分はまともじゃなかったのだ——……大学構内、輝かしい平和の世界で、その国の住民に囲まれながらも疎外感を抱いていた。人々がそれぞれの苦悩を抱えていると知っても、自分の足元だけどうしても、黒より深い底なし沼の気配を感じていた。  そうだよ……俺だけが異質だったんだ。  普通になれるはずがない。  だって、こんなにも暴力を欲している。神様たちの世界は平和で牧歌的だ。貫志の居場所はそこじゃなかった。チの下の、この地獄。  血の匂いに心が滾った。地を蹴って、拳で肉を抉る感触が愛しい。このまま暴力と暴力のぶつかり合いに、身を投じたい。  この怪物には、名前なんて元からない。  だから青が付けるのだ。
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