汀線

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 日の出とともに彼は身支度を整え、鏡にその姿を映した。  深い皺の刻まれた額、その下の双眸は澱んで、『老い』という妖物に蝕まれ続ける自分の姿に彼は大きくため息をつく。    家を出て、いつものように早朝の浜辺をひとり無言で歩く。  彼は波の打ち寄せるギリギリを歩くのが好きだった。 「今日は満潮か......」  波の打ち寄せる汀線は日によって、時間によって刻々と変わる。  日々の干満、時ごとの干満は些細なものだ。しかし、その積み重なりは後に到って大きな差異となる。 「明日は満月だったか......」  満月の満潮は波が一番岸に近づく。だが満ちてしまえば、徐々に徐々に潮は岸から遠ざかる。 ー私にもそういう時があった......ー  男は光を増す太陽を眩しげに見上げた。  と、背後から砂を踏む今ひとつの足音が近づいてきた。男が身を強張らせ、慎重に振り向くと彼の従僕が忌々しげに砂を蹴りながら近づいてきた。 「旦那様、お電話でございます」 「わかった......」  男は、ふっ......と小さな息を吐き、踵を返した。老人の脚は遅い。従僕は伝えるべきことを伝えると、さっさと元来た道を振り向きもせず、戻っていく。  老人はその力強く張った若い背中を眺めながら、ゆっくりと歩を進める。 ー私にもそういう時代があったー  彼はかつて気鋭の政治家だった。それ以前の若い時分には腕の良いエージェントとして世界を駆けていた。  しかし、若々しい時は瞬く間に過ぎ去り、彼はいつの間にか机の前で移り行く時代をただ恨むだけになっていた。  そして再び時の先端を走りたいと渇望するようになった男は政界へと身を投じた。  そこはまさしく闘いの場だった。ヒリヒリするような緊張感を肌身で味わいながら、男は冷静な頭脳と冷徹な対処で荒波を泳ぎきり、いつしか頂点に立っていた。  望月の満ち潮のように彼は力に溢れ、充足感に満たされていた。  しかし、徐々に潮は引き始め、反対に彼の身体はじわじわと病に侵されていた。  男は倒れ、病院のベッドで死を覚悟した。  そして男は死んだ。肉体的には一命を取り留めたが、社会的な死は免れなかった。 ーそのはずだった.....ー    困難な手術を乗り越え、まだ十全に呼吸も整わない彼の元にひとりの来訪者が訪れた。 『あなたの使命はまだ終わっていない。......だが、あなたの身体はもはや激務には耐えられない』  男は始め来訪者が何を言っているのか理解出来なかった。が、やがて彼は否応なしにその言葉を理解した。  来訪者が見せたタブレットの中で、彼と全く同じ姿をした男が集まった人々を前に演説をしていた。  彼と同じ口調、彼と同じ言い回し、彼と同じ抑揚で、その人物は熱っぽく語り、民衆の喝采を浴びていた。  その日から、男は自分を失った。生まれ落ちてから親しく呼ばれ続けた名前を失い、愛着のあった顔を失った。  誰も見舞いに来ない病室で、男は全く知らない自分になるために、新しい境遇に慣れるために多くの時間を費やした。 「はい、もしもし......」  男は家に戻り、書斎に座って、モバイルを手に取る。  辺りに目を配りながら、耳にあてると平板な声が要件を告げる。傍らには従僕が一言一句聞き漏らすまいと耳を傍立てている。  それが今の彼の生活だった。物質的には何の不自由のない、だが行動にも発言にも『自由』の無い暮らし。男が、男を信奉する者達とともに作りあげてきた『理想の国民』の暮らし。 「ふむ......。しかしそれは困難ではないのか?」  男はチラリと従僕が差し出したタブレットに目を走らせた。そこにはやはり老いた男がひとり映っていた。  かつての彼の名を持つ男が、かつての彼の姿で老いて、なお熱弁を奮っていた。  だが、聴衆にかつての熱気は無い。 ー潮は引いたのだー  男の名を頼り、男の人望によって地位を保とうと謀った者達は、潮目を読み違えた。  満ちた潮は必ず引く。  彼らが古えの栄光に憧れ、見果てぬ夢を見始めた時には、この国の潮は引き始めていた。  そして、今、潮は彼らの栄光から最も遠ざかっている。  彼の名と彼の容姿を持つ人物は程なくして、人々の前から姿を消すだろう。  そして、おそらく彼は漸く自分の名前を取り戻す。  生まれ持った名前の刻まれた墓碑銘の下に眠るのだ。ディスプレイの向こうの人物も同様に彼自身に立ち返る。だが、彼自身の言葉で語られる事象は何も無い。 ー哀れなものだ......ー  汀に残った足跡が波に浚われて消えていくように、男の足跡も消えていく。  半ばから変わった歩幅も足取りも、誰にも気づかれないまま消えていくのだ。 ー潮は引けば必ず満ちるー  だが再び潮が満ちてきた時には彼はいない。彼に出来ることは、彼の愛する故国の名が世界の変容の波に消されぬよう、秘かに祈ることだけだ。  男は両の目を瞑り、じっと彼方の潮騒に耳を傾ける。  自らの生の汀線をゆっくりと辿りながら、泡沫の夢の終わりを微笑んで迎え入れられるよう、神に秘かな祈りを捧げた。    
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