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「早苗、まだ起きているのか」
早苗は猫のように眠っている美禰子に自らの羽織りをかけてやりながら、針仕事を進めていた、そこに篤志がやってきたのである。元禄年間に登場した和菓子屋「清水」の若き当主柳篤志は色白で端正な顔立ちをしていた。先代である篤佐が早くに亡くなり、「清水屋中興の祖」と称揚された祖父篤右衛門の厳しい教育を受けて育った彼の商魂は逞しく、当主就任に古くからこの店に集う奉公人、番頭その他諸々の賛同を得るは容易であったのは言うまでもない。就任当初こそ良からぬ噂も立ち込めたが、今となっては東京の下町の女中から憧憬の眼差しを向けられていた。ある時彼がそんな熱心な信奉者から恋文を貰った折、彼の家に手製の菓子折を持って丁重に断る旨を伝えに行こうとした時どうも様子がおかしい。彼の家は武道場にあり、相対するものも男ばかりであった。結局恋文を送ったのは男だと判明し、挙げ句刃傷沙汰にまで話が縺れこんだのも今では笑話である。
「篤志さまも起きていらしたんですね」
早苗は若干頬を紅潮させ篤志を仰ぎながら呟くように言った。仄かな灯りが篤志の身体を観音のように覆い、その聖人然とした姿には嘆息を洩らさざるを得ない。彼女は湯船に浸るようにして篤志の魅惑に沈みこんでいった。
「君が解れを直してくれた着物は頗る気持ちが良い。朝夕と大変だろうが、これからも続けてくれると僕は嬉しい」
篤志は僕、という普段使わない庶民的な人称を用いて彼女に囁くように言った。彼女ははい、と真底嬉しそうに頷いた。篤志は破顔して身体を労るようにと言って障子戸を閉めた。障子から茫洋とした光が洩れ、彼女の存在を照らしている。篤志は静まり返った廊下を見渡して満足気に溜息をついた。
いっそのこと、美禰子を寝所まで運び出そうか
そんな考えが篤志の頭を過ぎったが、鼓動の高鳴りが抑えきれなくなって、遂にそれも諦め冷えた廊下に彼は寝そべった。
彼は着物を弄り、昼に自らが醸した汗の匂いに興奮しながら増長する彼のものを強く握りしめた。
あぁ!美禰子さえ居なければ!私は総てにおいて最高の美を一人占めできた訳だ!あぁ穢したい!私の汗で早苗を、、あぁ!
彼は握りしめる手を不意に上下に動かした。冷えた廊下は彼の飛躍した思考で早苗と結びつき、やがて彼は腕を勢いよく振り続けた。酩酊したように濁る彼の瞳にはこちらに手を振る早苗の姿があった。
無垢な早苗、私の早苗は今私の自涜も知らないで傍で私の着物を、、あぁあ!
静寂を破るようにガタンと崩れる音がして、早苗は障子戸の向こうを見遣った。
「篤志さま、大丈夫ですか?」
「あぁ、大丈夫だ、、僕のことはネ、いいからサ」
障子戸の向こうの彼は随分疲労したような脱力した声で応えた。だがそれを訝しむほど早苗は冴えてなかったし、仮に目覚めていたとしても彼の蠱惑に陥った状態では何もできまいが。ともかく廊下は篤志の自涜のために白濁した粘液が散乱し、銀色に光るそれを使って彼が「さなえ」と書いたことを彼女は知ることは有り得ないわけだ。
「篤志は夜な夜な店を抜け出し女を姦通して周っている」とは、彼が当主になった直後に流された風説である。
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